名将言行録 / 『名将言行録』眞田昌幸 上田城、誘い込みの布陣
○昌幸、上田、砥石、矢澤の城々を、德川家に明渡さんと言ふに依り、家康、家人を遣はし請取らしめんとありし時、眞田、信玄の小脇差と言はれし程の古兵にてあれば、彼城々も守備固からん、其上彼が兄長篠にて我勢の爲めに撃たれたれば、此度、弔合戰すべき抔思ひ設けしも知るべからず、彼が如き小身者に、五ケ國をも領する者が打負けなば、如何計りの恥辱ならん、是は保科、蘆田抔に扱はせよと言はれけれども、老臣強て申請ふにより、十三年閏八月二日大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠等をして、上田を攻めしむ。昌幸之を聞き、砥石城をば嫡子源三郎信幸に、七百の兵を副へて之を守らせ、矢澤の砦をば、矢澤但馬に守らせ、當城上田は、大河二重後に續れば、敵必ず一本木染屋一方より來るべし、然らば二の丸、椿、山口、海野口鴫田口まで弱兵を以て誘引寄せ、三方より突出て追崩し、砥石、矢澤より兵を出し敵の後を斷つべし、且つ城外小野山の陰に鄕民を伏せ、犬聞村にも輕兵三十人計りを置き一同に慕ひ擊たんと、先づ近里の作毛を雍ぎ刈らせ、谷々嶺々に二三千の兵を伏せ、紙旗を持たせ鳥銃を投け、城中に煙を揚け、關の聲起らば速かに發すべしと約を定め、備を爲す。敵は三、遠、駿、甲、信の勇士なれば、我が孤弱なるを侮り、巳の刻染屋より直ぐに攻む。城外曾て一人も見えざれば、敵競ひ進み、總郭の町口に迫る。大手の守將時田出羽、高月備中四百の兵を率ゐて突出で、暫時戰ひ、僞り負けて總郭の中に入る。敵勢に乗て攻入る。町口の橫路に喰違の柵を結び、籬を掛け輕卒を伏せ、是を待ち敵の到るを見て、等く鳥銃を發す。敵創を被る者過半に及ぶ。然れども敢て顧みず、猶進み、總郭に火を放ち、一時に攻破らんとす。康忠之を制し、火を發して進み擊たば城中より突出て味方必ず敗を取らん。猥に進むべからずと、頻りに止む。昌幸は上杉景勝が援兵を本丸に置き、自ら二の丸の正門に在て、時を窺ふ。
新字:○昌幸、上田、砥石、矢沢の城々を、徳川家に明渡さんと言ふに依り、家康、家人を遣はし請取らしめんとありし時、真田、信玄の小脇差と言はれし程の古兵にてあれば、彼城々も守備固からん、其上彼が兄長篠にて我勢の為めに撃たれたれば、此度、弔合戦すべき抔思ひ設けしも知るべからず、彼が如き小身者に、五ケ国をも領する者が打負けなば、如何計りの恥辱ならん、是は保科、蘆田抔に扱はせよと言はれけれども、老臣強て申請ふにより、十三年閏八月二日大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠等をして、上田を攻めしむ。昌幸之を聞き、砥石城をば嫡子源三郎信幸に、七百の兵を副へて之を守らせ、矢沢の砦をば、矢沢但馬に守らせ、当城上田は、大河二重後に続れば、敵必ず一本木染屋一方より来るべし、然らば二の丸、椿、山口、海野口鴫田口まで弱兵を以て誘引寄せ、三方より突出て追崩し、砥石、矢沢より兵を出し敵の後を断つべし、且つ城外小野山の陰に郷民を伏せ、犬聞村にも軽兵三十人計りを置き一同に慕ひ撃たんと、先づ近里の作毛を雍ぎ刈らせ、谷々嶺々に二三千の兵を伏せ、紙旗を持たせ鳥銃を投け、城中に煙を揚け、関の声起らば速かに発すべしと約を定め、備を為す。敵は三、遠、駿、甲、信の勇士なれば、我が孤弱なるを侮り、巳の刻染屋より直ぐに攻む。城外曽て一人も見えざれば、敵競ひ進み、総郭の町口に迫る。大手の守将時田出羽、高月備中四百の兵を率ゐて突出で、暫時戦ひ、偽り負けて総郭の中に入る。敵勢に乗て攻入る。町口の横路に喰違の柵を結び、籬を掛け軽卒を伏せ、是を待ち敵の到るを見て、等く鳥銃を発す。敵創を被る者過半に及ぶ。然れども敢て顧みず、猶進み、総郭に火を放ち、一時に攻破らんとす。康忠之を制し、火を発して進み撃たば城中より突出て味方必ず敗を取らん。猥に進むべからずと、頻りに止む。昌幸は上杉景勝が援兵を本丸に置き、自ら二の丸の正門に在て、時を窺ふ。
書き下し
○昌幸、上田、砥石、矢澤の城々を、德川家に明渡さんと言ふに依り、家康、家人を遣はし請取らしめんとありし時、眞田、信玄の小脇差と言はれし程の古兵にてあれば、彼城々も守備固からん、其上彼が兄長篠にて我勢の爲めに撃たれたれば、此度、弔合戰すべき抔思ひ設けしも知るべからず、彼が如き小身者に、五ケ國をも領する者が打負けなば、如何計りの恥辱ならん、是は保科、蘆田抔に扱はせよと言はれけれども、老臣強て申請ふにより、十三年閏八月二日大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠等をして、上田を攻めしむ。昌幸之を聞き、砥石城をば嫡子源三郎信幸に、七百の兵を副へて之を守らせ、矢澤の砦をば、矢澤但馬に守らせ、當城上田は、大河二重後に續れば、敵必ず一本木染屋一方より來るべし、然らば二の丸、椿、山口、海野口鴫田口まで弱兵を以て誘引寄せ、三方より突出て追崩し、砥石、矢澤より兵を出し敵の後を斷つべし、且つ城外小野山の陰に鄕民を伏せ、犬聞村にも輕兵三十人計りを置き一同に慕ひ擊たんと、先づ近里の作毛を雍ぎ刈らせ、谷々嶺々に二三千の兵を伏せ、紙旗を持たせ鳥銃を投け、城中に煙を揚け、關の聲起らば速かに發すべしと約を定め、備を爲す。敵は三、遠、駿、甲、信の勇士なれば、我が孤弱なるを侮り、巳の刻染屋より直ぐに攻む。城外曾て一人も見えざれば、敵競ひ進み、總郭の町口に迫る。大手の守將時田出羽、高月備中四百の兵を率ゐて突出で、暫時戰ひ、僞り負けて總郭の中に入る。敵勢に乗て攻入る。町口の橫路に喰違の柵を結び、籬を掛け輕卒を伏せ、是を待ち敵の到るを見て、等く鳥銃を發す。敵創を被る者過半に及ぶ。然れども敢て顧みず、猶進み、總郭に火を放ち、一時に攻破らんとす。康忠之を制し、火を發して進み擊たば城中より突出て味方必ず敗を取らん。猥に進むべからずと、頻りに止む。昌幸は上杉景勝が援兵を本丸に置き、自ら二の丸の正門に在て、時を窺ふ。
現代語訳
昌幸が、上田、砥石、矢沢の城々を徳川家に明け渡すようにと言われたため、家康は家臣を遣わして受け取らせようとしました。そのとき家康は、真田は信玄の小脇差と言われたほどの古兵であるから、あの城々も守りは固いだろう。そのうえ彼の兄が長篠で我が軍に撃たれたので、このたびは弔い合戦をしようと思い設けているかもしれない。彼のような小身の者に、五か国をも領する者が打ち負けたなら、どれほどの恥辱になろうか。これは保科・芦田などに取り扱わせよ、と言われましたが、老臣が強く願い出たので、十三年閏八月二日、大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠らに上田を攻めさせました。昌幸はこれを聞き、砥石城を嫡子源三郎信幸に七百の兵を添えて守らせ、矢沢の砦を矢沢但馬に守らせ、当城上田は大河が二重に後ろに続いているので、敵は必ず一本木・染屋の一方から来るだろう、そうであれば二の丸、椿、山口、海野口、鴫田口まで弱兵で誘い寄せ、三方から突き出して追い崩し、砥石・矢沢から兵を出して敵の後ろを断とう、かつ城外の小野山の陰に郷民を伏せ、犬聞村にも軽兵三十人ばかりを置き、一斉に慕い撃とうと、まず近くの里の作物を刈らせ、谷々、嶺々に二、三千の兵を伏せ、紙旗を持たせ鉄砲を投げ、城中に煙を揚げ、関の声が起こったなら速やかに発するように約束を定め、備えをしました。敵は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の勇士であったので、我が孤立して弱いのを侮り、巳の刻、染屋からまっすぐに攻めました。城外にはまったく一人も見えなかったので、敵は競い進み、総郭の町口に迫りました。大手の守将、時田出羽、高月備中は四百の兵を率いて突き出し、しばらく戦って、偽って負けて総郭の中に入りました。敵勢は勢いに乗って攻め入りました。町口の横路には食い違いの柵を結び、籬を掛け軽卒を伏せ、これを待って、敵が至るのを見て、一斉に鉄砲を撃ちました。敵の傷を負う者は過半に及びました。しかし敢えて顧みず、なお進み、総郭に火を放ち、一時に攻め破ろうとしました。康忠はこれを制し、火を発して進み撃てば、城中から突き出て味方は必ず敗れる。みだりに進んではならない、と頻りに止めました。昌幸は上杉景勝の援兵を本丸に置き、自ら二の丸の正門にいて、時を窺いました。
解説

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