名将言行録 / 『名将言行録』眞田昌幸 敵の勇士を惜しむ
○武田氏亡びて後、昌幸、室賀兵部を攻む。時に城より六尺餘の大男、只一人五町計り出て斥候をして乗り返る。大熊五郎左衞門が足輕一人追掛け、遁さじと言へば、彼武者顧みながら靜々と退きける。昌幸あれは何者ぞと尋ぬるに、何れもあれこそ聞ゆる松澤五左衞門なるべけれと申す。彼足輕三町計りの内にて、追付き切掛る。五左衞門、手を差延して彼足輕が髻を攫みて引伏せ、足に踏みて首掻き落し、田の中へ捨て、去らぬ體にて退きければ、味方何れも鎗押取り、馬に打乗り追掛んとす。昌幸、采幣を以て之を靜め、室賀は小身者、追付踏潰してあの五左衞門をば、我手に附くべし、惜き武士を打つべからずと制して、打しめず。後松澤終に眞田が臣と爲れり。
新字:○武田氏亡びて後、昌幸、室賀兵部を攻む。時に城より六尺余の大男、只一人五町計り出て斥候をして乗り返る。大熊五郎左衛門が足軽一人追掛け、遁さじと言へば、彼武者顧みながら静々と退きける。昌幸あれは何者ぞと尋ぬるに、何れもあれこそ聞ゆる松沢五左衛門なるべけれと申す。彼足軽三町計りの内にて、追付き切掛る。五左衛門、手を差延して彼足軽が髻を攫みて引伏せ、足に踏みて首掻き落し、田の中へ捨て、去らぬ体にて退きければ、味方何れも鎗押取り、馬に打乗り追掛んとす。昌幸、采幣を以て之を静め、室賀は小身者、追付踏潰してあの五左衛門をば、我手に附くべし、惜き武士を打つべからずと制して、打しめず。後松沢終に真田が臣と為れり。
書き下し
○武田氏亡びて後、昌幸、室賀兵部を攻む。時に城より六尺餘の大男、只一人五町計り出て斥候をして乗り返る。大熊五郎左衞門が足輕一人追掛け、遁さじと言へば、彼武者顧みながら靜々と退きける。昌幸あれは何者ぞと尋ぬるに、何れもあれこそ聞ゆる松澤五左衞門なるべけれと申す。彼足輕三町計りの内にて、追付き切掛る。五左衞門、手を差延して彼足輕が髻を攫みて引伏せ、足に踏みて首掻き落し、田の中へ捨て、去らぬ體にて退きければ、味方何れも鎗押取り、馬に打乗り追掛んとす。昌幸、采幣を以て之を靜め、室賀は小身者、追付踏潰してあの五左衞門をば、我手に附くべし、惜き武士を打つべからずと制して、打しめず。後松澤終に眞田が臣と爲れり。
現代語訳
武田氏が滅びた後、昌幸は室賀兵部を攻めました。そのとき城から六尺余りの大男が、ただ一人、五町ばかり出てきて偵察をして馬を乗り返しました。大熊五郎左衛門の足軽が一人、追いかけて、逃がさないぞと言うと、その武者は振り返りながら静かに退きました。昌幸が、あれは何者かと尋ねると、皆は、あれこそ名高い松沢五左衛門でしょうと申しました。その足軽は三町ばかりの間に追いつき、切りかかりました。五左衛門は手を差し延べて、その足軽の髻をつかんで引き伏せ、足で踏んで首をかき落とし、田の中へ捨て、何事もない様子で退いたので、味方はみな槍を取り、馬に乗って追いかけようとしました。昌幸は采配でこれを静め、室賀は小身の者であるから、追いついて踏み潰してから、あの五左衛門を私の手に付けよう、惜しい武士を討ってはならない、と制して、討たせませんでした。後に松沢はついに真田の家臣となりました。
解説

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尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
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