名将言行録 / 『名将言行録』眞田昌幸 晴信の両眼と勝頼への進言
彈正忠幸隆の子、安房守に任じ、上田城に住す。慶長五年高野九度山に蟄居し、一翁千雪と號す。同十六年六月四日卒、年六十八。 ○元龜元年九月、武田晴信、北條氏政と駿河にて對陣の時、是非一戰を遂げ、明後日は必ず小田原入と言はれける。時に馬場信房敵味方防戰の地形を御存なくては如何と言ふ。晴信夫は、各々心易く思ひ候へ、法性院が兩眼の如くなる者を指出し候と言はれけり。人皆御兩眼とあるは誰人ぞと不審を立つる所に、頓て兩人斥候して歸りたるを見れば、昌幸と曾根内匠なり。 ○十年、勝頼諏訪に陣す。織田の軍勢四方より攻め來りし故、昌幸一ト先づ吾妻の城に籠られ、然る上恢復の謀を廻らし給へと勸めけれども、長坂頼弘其謀を阻す。勝頼、昌幸の言を用ひず、郡内に赴き、遂に身死、國亡びたり。
新字:弾正忠幸隆の子、安房守に任じ、上田城に住す。慶長五年高野九度山に蟄居し、一翁千雪と号す。同十六年六月四日卒、年六十八。 ○元亀元年九月、武田晴信、北条氏政と駿河にて対陣の時、是非一戦を遂げ、明後日は必ず小田原入と言はれける。時に馬場信房敵味方防戦の地形を御存なくては如何と言ふ。晴信夫は、各々心易く思ひ候へ、法性院が両眼の如くなる者を指出し候と言はれけり。人皆御両眼とあるは誰人ぞと不審を立つる所に、頓て両人斥候して帰りたるを見れば、昌幸と曽根内匠なり。 ○十年、勝頼諏訪に陣す。織田の軍勢四方より攻め来りし故、昌幸一ト先づ吾妻の城に籠られ、然る上恢復の謀を廻らし給へと勧めけれども、長坂頼弘其謀を阻す。勝頼、昌幸の言を用ひず、郡内に赴き、遂に身死、国亡びたり。
書き下し
彈正忠幸隆の子、安房守に任じ、上田城に住す。慶長五年高野九度山に蟄居し、一翁千雪と號す。同十六年六月四日卒、年六十八。 ○元龜元年九月、武田晴信、北條氏政と駿河にて對陣の時、是非一戰を遂げ、明後日は必ず小田原入と言はれける。時に馬場信房敵味方防戰の地形を御存なくては如何と言ふ。晴信夫は、各々心易く思ひ候へ、法性院が兩眼の如くなる者を指出し候と言はれけり。人皆御兩眼とあるは誰人ぞと不審を立つる所に、頓て兩人斥候して歸りたるを見れば、昌幸と曾根内匠なり。 ○十年、勝頼諏訪に陣す。織田の軍勢四方より攻め來りし故、昌幸一ト先づ吾妻の城に籠られ、然る上恢復の謀を廻らし給へと勸めけれども、長坂頼弘其謀を阻す。勝頼、昌幸の言を用ひず、郡内に赴き、遂に身死、國亡びたり。
現代語訳
弾正忠幸隆の子で、安房守に任じられ、上田城に住みました。慶長五年に高野の九度山に蟄居し、一翁千雪と号しました。同十六年六月四日に亡くなり、年は六十八でした。 元亀元年九月、武田晴信が北条氏政と駿河で対陣したとき、ぜひ一戦を遂げ、明後日は必ず小田原入りをしようと言われました。そのとき馬場信房が、敵味方の防戦の地形をご存じなくてはいかがでしょうか、と言いました。晴信は、それはあなた方、安心してよい。法性院の両眼のような者を差し出そう、と言われました。人々は、御両眼とあるのは誰のことかと不審に思っていると、やがて二人が偵察して帰ってきたのを見ると、昌幸と曽根内匠でした。 十年、勝頼が諏訪に陣しました。織田の軍勢が四方から攻めてきたので、昌幸は、ひとまず吾妻の城にお籠もりになり、そのうえで回復の計略をめぐらしなさい、と勧めましたが、長坂頼弘がその計略を阻みました。勝頼は昌幸の言葉を用いず、郡内に赴いて、ついに身は死に、国は滅びました。
解説

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