名将言行録 / 『名将言行録』山縣昌景 初合戦の心で戦う
初め飯富源四郎と稱し、後山縣氏を冒し、三郎兵衞尉と改む。江尻城に住し、四萬石を領す、武田家四臣の一人なり。天正三年五月二十一日戰死。 ○天正二年二月勝賴、織田信長の屬城十八を陷る。此時明智の城を攻し時、信長六萬餘人を以て後詰なり。昌景六千の兵を以て信長に打掛る。信長之を見て早々引退く。昌景跡を慕ふこと、上道四里、茲に於て昌景下知して迫はしめず。信長、夫より上道四里退きて陣せり。故に明智の城、忽ちに陷りたり。 ○或人昌景に問て曰く、貴殿の軍は幾度せられても、一度も後れを取り給はぬこと、習ひあるにやと。昌景聞て、去ればにや、二度も三度も首尾を合はせたる者は、早晩斯くあるものと思ひ、自慢の心先立ち、工夫等閑にして掛る故に、思ひの外に過ることあり。我は自慢の心なく、何つも初つ合戰に思ひて戰ふ故に、一度も不覺を取らざりき。何事も油斷すれば錆が付たがるものなり。殊更士の道は寢ても覺ても、時の間も忘れず油斷せぬが能きぞ。明暮手に觸れて腰に差す刀さへも、油斷すれば錆が付くなり。武道は士の役、嗜までは無き筈なりとて、優優として居る者の味能く仕合たるを見ず、嗜みてさへ、思ふ樣には仕合はせ惡きものなり。武道は我家の道なる間、入らざる世間の戲をば大概にして、先づ我家の道に錆を付なと言はれけり。
新字:初め飯富源四郎と称し、後山県氏を冒し、三郎兵衛尉と改む。江尻城に住し、四万石を領す、武田家四臣の一人なり。天正三年五月二十一日戦死。 ○天正二年二月勝頼、織田信長の属城十八を陥る。此時明智の城を攻し時、信長六万余人を以て後詰なり。昌景六千の兵を以て信長に打掛る。信長之を見て早々引退く。昌景跡を慕ふこと、上道四里、茲に於て昌景下知して迫はしめず。信長、夫より上道四里退きて陣せり。故に明智の城、忽ちに陥りたり。 ○或人昌景に問て曰く、貴殿の軍は幾度せられても、一度も後れを取り給はぬこと、習ひあるにやと。昌景聞て、去ればにや、二度も三度も首尾を合はせたる者は、早晩斯くあるものと思ひ、自慢の心先立ち、工夫等閑にして掛る故に、思ひの外に過ることあり。我は自慢の心なく、何つも初つ合戦に思ひて戦ふ故に、一度も不覚を取らざりき。何事も油断すれば錆が付たがるものなり。殊更士の道は寝ても覚ても、時の間も忘れず油断せぬが能きぞ。明暮手に触れて腰に差す刀さへも、油断すれば錆が付くなり。武道は士の役、嗜までは無き筈なりとて、優優として居る者の味能く仕合たるを見ず、嗜みてさへ、思ふ様には仕合はせ悪きものなり。武道は我家の道なる間、入らざる世間の戯をば大概にして、先づ我家の道に錆を付なと言はれけり。
書き下し
初め飯富源四郎と稱し、後山縣氏を冒し、三郎兵衞尉と改む。江尻城に住し、四萬石を領す、武田家四臣の一人なり。天正三年五月二十一日戰死。 ○天正二年二月勝賴、織田信長の屬城十八を陷る。此時明智の城を攻し時、信長六萬餘人を以て後詰なり。昌景六千の兵を以て信長に打掛る。信長之を見て早々引退く。昌景跡を慕ふこと、上道四里、茲に於て昌景下知して迫はしめず。信長、夫より上道四里退きて陣せり。故に明智の城、忽ちに陷りたり。 ○或人昌景に問て曰く、貴殿の軍は幾度せられても、一度も後れを取り給はぬこと、習ひあるにやと。昌景聞て、去ればにや、二度も三度も首尾を合はせたる者は、早晩斯くあるものと思ひ、自慢の心先立ち、工夫等閑にして掛る故に、思ひの外に過ることあり。我は自慢の心なく、何つも初つ合戰に思ひて戰ふ故に、一度も不覺を取らざりき。何事も油斷すれば錆が付たがるものなり。殊更士の道は寢ても覺ても、時の間も忘れず油斷せぬが能きぞ。明暮手に觸れて腰に差す刀さへも、油斷すれば錆が付くなり。武道は士の役、嗜までは無き筈なりとて、優優として居る者の味能く仕合たるを見ず、嗜みてさへ、思ふ樣には仕合はせ惡きものなり。武道は我家の道なる間、入らざる世間の戲をば大概にして、先づ我家の道に錆を付なと言はれけり。
現代語訳
はじめ飯富源四郎と名乗り、のちに山縣氏を継ぎ、三郎兵衛尉と改めました。江尻城に住み、四万石を領しました。武田家四臣の一人です。天正三年五月二十一日に戦死しました。 天正二年二月、勝頼は織田信長の属城十八を落としました。このとき明智の城を攻めた際、信長は六万余りの人数で後詰めに出ました。昌景は六千の兵で信長に打ちかかりました。信長はこれを見て早々に引き退きました。昌景は跡を慕って上道四里ほど進み、ここで昌景が指示して追わせませんでした。信長はそれから上道四里退いて陣を張りました。そのため明智の城はたちまち落ちました。 ある人が昌景に尋ねて言いました。あなたは何度戦われても一度も後れを取られないのは、習いがあるのでしょうか、と。昌景はこれを聞いて、さあどうだろうか。二度も三度も首尾を合わせた者は、いつもこうなるものと思い、自慢の心が先に立って、工夫をおろそかにして臨むので、思いのほか過ちがある。自分は自慢の心がなく、いつも初めての合戦と思って戦うので、一度も不覚を取らなかった。何事も油断すれば錆がつきたがるものだ。ことさら武士の道は、寝ても覚めても、わずかな間も忘れず油断しないのがよい。朝夕手に触れて腰に差す刀さえ、油断すれば錆がつく。武道は武士の役であって、嗜みではないはずだと言って、のんびりしている者がうまくいったのを見ない。嗜んでさえ、思うようにはうまくいきにくいものである。武道は我が家の道であるから、いらない世間の戯れ事を控え目にして、まず我が家の道に錆をつけるな、と言われました。
解説

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