名将言行録 / 『名将言行録』山縣昌景 討たれた後に残る評判
○此役、昌景先手に在りて、敵の仕寄を付るを見て居たりしが、二人の武者眞先に進みて、柵の杭は斯く打つものよ、結び樣は斯くこそすれと、自身に男結にしむるを見て、あの武者は尋常の者にあらず、夫れ打てと下知しけり。後に聞けば木下藤吉郎秀吉とは知れてけり。此役、昌景敵と合ふこと十三度、銃丸に中りしこと十七ヶ所、去れども鎧堅き故、裏かゝず、其中右の手に中る。昌景顧みず、左の手にて麾を持し、猶指麾す。又左の手に中る。猶顧みず、口に啣て指麾す。然れども鳥銃雨の如くなれば、終に鞍の前輪より後ろまで打拔れ、馬より飄と落つ。徳川の兵首を取る。志村光家、其兵を突伏せ、首を奪返して退けり。家康戰死の由を聞て殊の外惜みしとぞ。 ○昌景、一年大井川を渡り、家康を追ふ。家康危き退口なり。家康掛川城に入り、側の人々へ、信玄は能き人を數多持ちたり、其中に山縣抔に勝りたる者はあるまじ、尋常の者にあらずと、殊の外賞美ありけり。武田亡びて後、家康昌景が備を井伊直政に命じ、昌景が同心共を附屬させ、偖言はれけるは、萬千代儀を其方共介抱致し、山縣が武邊行儀の樣に取立申べきとなり。又袋井繩手通行せらるゝ節は、度々昌景の事を噂せられしとぞ。
新字:○此役、昌景先手に在りて、敵の仕寄を付るを見て居たりしが、二人の武者真先に進みて、柵の杭は斯く打つものよ、結び様は斯くこそすれと、自身に男結にしむるを見て、あの武者は尋常の者にあらず、夫れ打てと下知しけり。後に聞けば木下藤吉郎秀吉とは知れてけり。此役、昌景敵と合ふこと十三度、銃丸に中りしこと十七ヶ所、去れども鎧堅き故、裏かゝず、其中右の手に中る。昌景顧みず、左の手にて麾を持し、猶指麾す。又左の手に中る。猶顧みず、口に啣て指麾す。然れども鳥銃雨の如くなれば、終に鞍の前輪より後ろまで打抜れ、馬より飄と落つ。徳川の兵首を取る。志村光家、其兵を突伏せ、首を奪返して退けり。家康戦死の由を聞て殊の外惜みしとぞ。 ○昌景、一年大井川を渡り、家康を追ふ。家康危き退口なり。家康掛川城に入り、側の人々へ、信玄は能き人を数多持ちたり、其中に山県抔に勝りたる者はあるまじ、尋常の者にあらずと、殊の外賞美ありけり。武田亡びて後、家康昌景が備を井伊直政に命じ、昌景が同心共を附属させ、偖言はれけるは、万千代儀を其方共介抱致し、山県が武辺行儀の様に取立申べきとなり。又袋井縄手通行せらるゝ節は、度々昌景の事を噂せられしとぞ。
書き下し
○此役、昌景先手に在りて、敵の仕寄を付るを見て居たりしが、二人の武者眞先に進みて、柵の杭は斯く打つものよ、結び樣は斯くこそすれと、自身に男結にしむるを見て、あの武者は尋常の者にあらず、夫れ打てと下知しけり。後に聞けば木下藤吉郎秀吉とは知れてけり。此役、昌景敵と合ふこと十三度、銃丸に中りしこと十七ヶ所、去れども鎧堅き故、裏かゝず、其中右の手に中る。昌景顧みず、左の手にて麾を持し、猶指麾す。又左の手に中る。猶顧みず、口に啣て指麾す。然れども鳥銃雨の如くなれば、終に鞍の前輪より後ろまで打拔れ、馬より飄と落つ。徳川の兵首を取る。志村光家、其兵を突伏せ、首を奪返して退けり。家康戰死の由を聞て殊の外惜みしとぞ。 ○昌景、一年大井川を渡り、家康を追ふ。家康危き退口なり。家康掛川城に入り、側の人々へ、信玄は能き人を數多持ちたり、其中に山縣抔に勝りたる者はあるまじ、尋常の者にあらずと、殊の外賞美ありけり。武田亡びて後、家康昌景が備を井伊直政に命じ、昌景が同心共を附屬させ、偖言はれけるは、萬千代儀を其方共介抱致し、山縣が武邊行儀の樣に取立申べきとなり。又袋井繩手通行せらるゝ節は、度々昌景の事を噂せられしとぞ。
現代語訳
この戦いで、昌景は先手にいて、敵が仕寄りを付けるのを見ていましたが、二人の武者が真っ先に進み、柵の杭はこう打つものだ、結び様はこうするのだと、自ら男結びにしめるのを見て、あの武者はただ者ではない、あれを撃てと指図しました。後に聞けば、木下藤吉郎秀吉とのことでした。この戦いで、昌景は敵と合うこと十三度、銃弾に当たること十七か所、しかし鎧が堅かったので裏には通らず、そのうち右の手に当たりました。昌景は顧みず、左の手で采配を持ち、なお指揮しました。また左の手に当たりました。なお顧みず、口にくわえて指揮しました。しかし鉄砲が雨のようであったので、ついには鞍の前輪から後ろまで撃ち抜かれて、馬からばさりと落ちました。徳川の兵が首を取ろうとしました。志村光家が、その兵を突き伏せ、首を奪い返して退きました。家康は戦死の知らせを聞いて、ことのほか惜しんだと言われます。 昌景は一年、大井川を渡って家康を追いました。家康は危うい退き口でした。家康は掛川城に入り、側の人々に、信玄はよい人を数多く持っているが、その中で山縣などに勝る者はあるまい、ただ者ではない、とことのほか誉めました。武田が滅んだ後、家康は昌景の備えを井伊直政に命じ、昌景の同心たちを付属させ、そして言われるには、万千代を、お前たちが介抱して、山縣の武辺や行儀のように取り立てよ、とのことでした。また袋井の縄手を通行されるときは、度々昌景のことを噂されたと言います。
解説

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