名将言行録 / 『名将言行録』山縣昌景 最後の盃と最後の諫言
○昌景は不文字の人なれども、武事に練達したる人なる故、弓箭の事に付て書きたるものは、物知り顔に、文通達者を自慢する人よりは、勝れりとぞ。 ○長篠の役、諸將勝頼を諫む。勝頼聽かず、彌々二十一日の戰に究む。諸將相議し、是上は是非に及ばざることなれども、今一度諫め申すべしとて、二十一日の朝昌景を使にて申けるは、是非とも御合戰成さると仰らゝを、御留まり成されよと申にては之なく、此方より御掛り成されての合戰は、無用に成されて、敵に川を渡させての合戰に成され然るべく存ずる旨、老臣共一同相談にて申上ぐるとなり。勝頼兎角の返事なくどこまでも命は惜きものなりと言ふ。昌景立腹し、御小姓衆、御銚子御盃出され候へ、最後の盃を進上申べしとて、酒を賜はり、其盃を勝頼に進めて曰く、某等は戰死仕るべく候、定めて屋形樣も御戰死遊ばさるべくと申て、退出し、諸將の居る所に未だ至らざるに、遠方より大聲にて、先きよりのことは、犬の前の諸經、皆打死打死と言捨てゝ縁の脇より、馬に打乗り甲の緒を締め出戰せりとぞ。
新字:○昌景は不文字の人なれども、武事に練達したる人なる故、弓箭の事に付て書きたるものは、物知り顔に、文通達者を自慢する人よりは、勝れりとぞ。 ○長篠の役、諸将勝頼を諫む。勝頼聴かず、弥々二十一日の戦に究む。諸将相議し、是上は是非に及ばざることなれども、今一度諫め申すべしとて、二十一日の朝昌景を使にて申けるは、是非とも御合戦成さると仰らゝを、御留まり成されよと申にては之なく、此方より御掛り成されての合戦は、無用に成されて、敵に川を渡させての合戦に成され然るべく存ずる旨、老臣共一同相談にて申上ぐるとなり。勝頼兎角の返事なくどこまでも命は惜きものなりと言ふ。昌景立腹し、御小姓衆、御銚子御盃出され候へ、最後の盃を進上申べしとて、酒を賜はり、其盃を勝頼に進めて曰く、某等は戦死仕るべく候、定めて屋形様も御戦死遊ばさるべくと申て、退出し、諸将の居る所に未だ至らざるに、遠方より大声にて、先きよりのことは、犬の前の諸経、皆打死打死と言捨てゝ縁の脇より、馬に打乗り甲の緒を締め出戦せりとぞ。
書き下し
○昌景は不文字の人なれども、武事に練達したる人なる故、弓箭の事に付て書きたるものは、物知り顔に、文通達者を自慢する人よりは、勝れりとぞ。 ○長篠の役、諸將勝頼を諫む。勝頼聽かず、彌々二十一日の戰に究む。諸將相議し、是上は是非に及ばざることなれども、今一度諫め申すべしとて、二十一日の朝昌景を使にて申けるは、是非とも御合戰成さると仰らゝを、御留まり成されよと申にては之なく、此方より御掛り成されての合戰は、無用に成されて、敵に川を渡させての合戰に成され然るべく存ずる旨、老臣共一同相談にて申上ぐるとなり。勝頼兎角の返事なくどこまでも命は惜きものなりと言ふ。昌景立腹し、御小姓衆、御銚子御盃出され候へ、最後の盃を進上申べしとて、酒を賜はり、其盃を勝頼に進めて曰く、某等は戰死仕るべく候、定めて屋形樣も御戰死遊ばさるべくと申て、退出し、諸將の居る所に未だ至らざるに、遠方より大聲にて、先きよりのことは、犬の前の諸經、皆打死打死と言捨てゝ縁の脇より、馬に打乗り甲の緒を締め出戰せりとぞ。
現代語訳
昌景は字を知らない人だったが、武事に練達した人であったので、弓矢のことについて書いたものは、物知り顔に文章に通じていることを自慢する人よりも優れていたと言われます。 長篠の戦いで、諸将は勝頼を諫めました。勝頼は聞かず、いよいよ二十一日の戦いに決めました。諸将は相談し、こうなってはやむを得ないことであるが、今一度諫め申そうと言って、二十一日の朝、昌景を使者として申し上げたのは、是非とも合戦をなさるとおっしゃるのを、お留まりなさいと申すのではなく、こちらから掛かられての合戦は無用になさって、敵に川を渡らせての合戦になさるのがよいと存ずる旨を、老臣どもが一同相談して申し上げる、ということでした。勝頼はとにかく返事をせず、どこまでも命は惜しいものだと言いました。昌景は腹を立て、小姓衆、銚子と御盃を出しなされ、最後の盃を進上しようと言って、酒をいただき、その盃を勝頼に勧めて、私どもは戦死いたしましょう、おそらく屋形様も御戦死なさるでしょう、と申して退出し、諸将のいる所にまだ至らないうちに、遠方から大声で、先のことは、犬の前の諸経だ、皆討ち死に、討ち死にと言い捨てて、縁の脇から馬に乗り、兜の緒を締めて出陣したと言われます。
解説

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