名将言行録 / 『名将言行録』馬場信房 清田の水酒宴と必死の突撃
信房等、勝賴が諫に從はざるを悲歎し、武田の家運傾覆の時至れり、生ながら國家の滅亡を見るに忍びざれば、潔く戰死して、國に報ぜん、先づ戰地を一覽して、不覺の名を殘すまじと翌二十日、老臣の人々同道して、共に清田村に至り、地利を考へ、後ろの池に立寄り、馬より下り、床机に腰打掛け休息す。信房曰く、明日の戰は志を必死に決す。卿等を始め、我とても先君の世より、共に忠義を勵み、交を厚くせしが、參會も今日のみなり、酒宴を爲して、其情を盡さんと思へども、今更に爲すべき樣なし、幸に此清水を汲み、酒に擬し、生前の別を惜むべしと言ひ、則ち從臣に命じ檜杓を以て清水を汲ましめ、腰間の水呑杓にて一杯を盡し、賴順に酌替はし、情を盡して歸る。時人是を清田の水酒宴と云ふ。二十一日信房、七百餘人を以て閑防山の麓を押出し、大宮の前、佐久間右衞門尉信盛が五千餘人にて、柵外に張出し、小塚の上に備居たるを見て、信房七百餘人を二ッに分ち、三百五十人を以て眞一文字に突掛り、信盛を敗て、首四十三級を得たり。信房臺に馬を乘り上げ、勞れたる三百五十人を、塚の後に休ませ、荒手三百五十人を以て、臺の上に備たり。信盛は一戰に打敗られて、柵より外に出ざるにより、直に進で一の柵を引破り、又敵を突崩す所に、森庄藏長可、明智十兵衞光秀、不破河內守、德山五兵衞則秀等信盛を授けて一萬餘人にて押掛るを、信房六百餘人を左右にし、眞先に進みて突掛り、二の柵に於て敵に當ること、既に十三度なれば、皆鳥銃に中り討死し、僅二百餘人に成にける。去れども少しもひるまず、二の柵に馬を乘入れ、二百餘人を下知して、悉く柵を取拂ふに、敵敢て出合はず。只鳥銃を以て打すくめけるに、二の柵にて打たるゝ者、又百餘人なれど、少しも虎口を緩めず。
新字:信房等、勝頼が諫に従はざるを悲嘆し、武田の家運傾覆の時至れり、生ながら国家の滅亡を見るに忍びざれば、潔く戦死して、国に報ぜん、先づ戦地を一覧して、不覚の名を残すまじと翌二十日、老臣の人々同道して、共に清田村に至り、地利を考へ、後ろの池に立寄り、馬より下り、床机に腰打掛け休息す。信房曰く、明日の戦は志を必死に決す。卿等を始め、我とても先君の世より、共に忠義を励み、交を厚くせしが、参会も今日のみなり、酒宴を為して、其情を尽さんと思へども、今更に為すべき様なし、幸に此清水を汲み、酒に擬し、生前の別を惜むべしと言ひ、則ち従臣に命じ檜杓を以て清水を汲ましめ、腰間の水呑杓にて一杯を尽し、頼順に酌替はし、情を尽して帰る。時人是を清田の水酒宴と云ふ。二十一日信房、七百余人を以て閑防山の麓を押出し、大宮の前、佐久間右衛門尉信盛が五千余人にて、柵外に張出し、小塚の上に備居たるを見て、信房七百余人を二ッに分ち、三百五十人を以て真一文字に突掛り、信盛を敗て、首四十三級を得たり。信房台に馬を乗り上げ、労れたる三百五十人を、塚の後に休ませ、荒手三百五十人を以て、台の上に備たり。信盛は一戦に打敗られて、柵より外に出ざるにより、直に進で一の柵を引破り、又敵を突崩す所に、森庄蔵長可、明智十兵衛光秀、不破河内守、徳山五兵衛則秀等信盛を授けて一万余人にて押掛るを、信房六百余人を左右にし、真先に進みて突掛り、二の柵に於て敵に当ること、既に十三度なれば、皆鳥銃に中り討死し、僅二百余人に成にける。去れども少しもひるまず、二の柵に馬を乗入れ、二百余人を下知して、悉く柵を取払ふに、敵敢て出合はず。只鳥銃を以て打すくめけるに、二の柵にて打たるゝ者、又百余人なれど、少しも虎口を緩めず。
書き下し
信房等、勝賴が諫に從はざるを悲歎し、武田の家運傾覆の時至れり、生ながら國家の滅亡を見るに忍びざれば、潔く戰死して、國に報ぜん、先づ戰地を一覽して、不覺の名を殘すまじと翌二十日、老臣の人々同道して、共に清田村に至り、地利を考へ、後ろの池に立寄り、馬より下り、床机に腰打掛け休息す。信房曰く、明日の戰は志を必死に決す。卿等を始め、我とても先君の世より、共に忠義を勵み、交を厚くせしが、參會も今日のみなり、酒宴を爲して、其情を盡さんと思へども、今更に爲すべき樣なし、幸に此清水を汲み、酒に擬し、生前の別を惜むべしと言ひ、則ち從臣に命じ檜杓を以て清水を汲ましめ、腰間の水呑杓にて一杯を盡し、賴順に酌替はし、情を盡して歸る。時人是を清田の水酒宴と云ふ。二十一日信房、七百餘人を以て閑防山の麓を押出し、大宮の前、佐久間右衞門尉信盛が五千餘人にて、柵外に張出し、小塚の上に備居たるを見て、信房七百餘人を二ッに分ち、三百五十人を以て眞一文字に突掛り、信盛を敗て、首四十三級を得たり。信房臺に馬を乘り上げ、勞れたる三百五十人を、塚の後に休ませ、荒手三百五十人を以て、臺の上に備たり。信盛は一戰に打敗られて、柵より外に出ざるにより、直に進で一の柵を引破り、又敵を突崩す所に、森庄藏長可、明智十兵衞光秀、不破河內守、德山五兵衞則秀等信盛を授けて一萬餘人にて押掛るを、信房六百餘人を左右にし、眞先に進みて突掛り、二の柵に於て敵に當ること、既に十三度なれば、皆鳥銃に中り討死し、僅二百餘人に成にける。去れども少しもひるまず、二の柵に馬を乘入れ、二百餘人を下知して、悉く柵を取拂ふに、敵敢て出合はず。只鳥銃を以て打すくめけるに、二の柵にて打たるゝ者、又百餘人なれど、少しも虎口を緩めず。
現代語訳
信房らは、勝頼が諫めに従わないことを嘆き悲しみ、武田家の家運が傾き覆る時が来た、生きながら国家の滅亡を見るのに堪えないので、潔く戦死して国に報いよう、まず戦地を見て回り、見苦しい名を残すまいと、翌二十日、老臣の人々と同道して、ともに清田村に行き、地の利を考え、後ろの池に立ち寄り、馬から下り、床几に腰を掛けて休息しました。信房は言いました。明日の戦いは、志を必死に決めている。あなた方をはじめ、私とても先君の代から、ともに忠義に励み、交わりを厚くしてきたが、顔を合わせるのも今日だけである。酒宴を開いて、その情を尽くしたいと思うが、今さらどうすることもできない。幸いこの清水を汲んで酒に擬し、生前の別れを惜しもう、と言って、従者に命じて柄杓で清水を汲ませ、腰に付けた水呑み杓で一杯を飲み干し、頼順に酌み交わし、情を尽くして帰りました。当時の人はこれを清田の水酒宴と呼びました。二十一日、信房は七百余りの人数で閑防山の麓を押し出し、大宮の前に、佐久間右衛門尉信盛が五千余りの人数で柵の外に張り出し、小さな塚の上に備えているのを見て、信房は七百余りを二つに分け、三百五十人で真一文字に突きかかり、信盛を破って、首四十三を得ました。信房は台に馬を乗り上げ、疲れた三百五十人を塚の後ろで休ませ、新手の三百五十人を台の上に備えました。信盛は一戦に打ち負かされて柵より外に出なかったので、すぐに進んで一の柵を引き破り、また敵を突き崩すところに、森庄蔵長可、明智十兵衛光秀、不破河内守、徳山五兵衛則秀らが信盛を助けて一万余りで押し掛けてきました。信房は六百余りを左右に分け、真っ先に進んで突きかかり、二の柵で敵に当たること、すでに十三度に及び、みな鉄砲に当たって討ち死にし、わずか二百余りになりました。しかし少しもひるまず、二の柵に馬を乗り入れ、二百余りを指揮して、ことごとく柵を取り払いましたが、敵は敢えて出会おうとしません。ただ鉄砲で撃ちすくめたので、二の柵でまた百余りが討たれましたが、少しも虎口を緩めませんでした。
解説

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