名将言行録 / 『名将言行録』原虎胤 傷ついた老武者を送る
能登守友胤の子、武田氏に仕て、美濃守と稱す。後髮を剃り清嵒と號す。永祿七年卒す。 ○虎胤、初め父と共に千葉介勝胤に仕ふ。一年胤勝常陸の兵と戰て大に勝ち、敵の陣を追拂ひ、小荷駄を分捕しけるに、一人の老武者痛手にて、小荷駄備に疵を灸治して居たり。名を問へど答へず、只首を取れと言ふ。勝胤殺すに忍びず、速に此處を去れと言ふ。其武者手負なれば、去るに堪へずと言ふ。虎胤、勝胤に向ひ、某此武者を送り、常陸の陣に赴んと請ふ。勝胤之を許るす。虎胤其武者を掻き負て、敗軍の後を慕ひ行くこと二三里にして、其武者左巴の旗押立て三四百計り眞圓に備たるを見て、願くばあの陣に伴ひ呉れよと言ふ。虎胤其言の如くす。其間百間計りに成りし時、其陣より武者六七人驅け來り、此手負を迎ふ。虎胤何者ぞと問ふ。六七人の者曰く、此老武者は我々が叔父なり、我等が持場の戰急にして、主なる者引彙ね給ふを守護して是まで遁れたり、依て叔父の手負たるを知らざりしに、君の義勇厚きにより、爰に再會するを得たり、恩謝の詞を知らず、何人にて座すや、御姓名を承はらんと言ふ。虎胤、先に御邊の叔父の名を問ふに答へず、我又何を名乘るべき、只老人の手負を痛は敷思ふを以て送るのみ、幸に其甥子達に廻ぐり會うて、之を附屬するを得たり、我本懷達せり、但し御邊の姓名を聞て歸るにあらざれば、我主君に答ふる詞なしと言ふ。其六七人の者名乘るには、主君に告けずば後の咎あらん、いざ之を告んと言て、陣中に入る。其時此手負虎胤に申樣、君は年若しと雖も、勇武關東に比類あるべからず、某等幾人寄りても及ぶべからず、我腰差の瓢箪は、千葉殿の見知り給ふ物なり、甥共の腰差も、又瓢箪なり、某と合はせて八つあり、君に付與し參らすべし、之を印とせば、姓名を告るに及ぶまじと。虎胤之を受取り、再び姓名を問はず。本陣に歸り、此事を勝胤に告ぐ。勝胤虎胤が周旋を壯なりとして、是より八瓢箪を以て差物と爲さしむ。其後虎胤是を差して戰場に望む。
新字:能登守友胤の子、武田氏に仕て、美濃守と称す。後髪を剃り清嵒と号す。永禄七年卒す。 ○虎胤、初め父と共に千葉介勝胤に仕ふ。一年胤勝常陸の兵と戦て大に勝ち、敵の陣を追払ひ、小荷駄を分捕しけるに、一人の老武者痛手にて、小荷駄備に疵を灸治して居たり。名を問へど答へず、只首を取れと言ふ。勝胤殺すに忍びず、速に此処を去れと言ふ。其武者手負なれば、去るに堪へずと言ふ。虎胤、勝胤に向ひ、某此武者を送り、常陸の陣に赴んと請ふ。勝胤之を許るす。虎胤其武者を掻き負て、敗軍の後を慕ひ行くこと二三里にして、其武者左巴の旗押立て三四百計り真円に備たるを見て、願くばあの陣に伴ひ呉れよと言ふ。虎胤其言の如くす。其間百間計りに成りし時、其陣より武者六七人駆け来り、此手負を迎ふ。虎胤何者ぞと問ふ。六七人の者曰く、此老武者は我々が叔父なり、我等が持場の戦急にして、主なる者引彙ね給ふを守護して是まで遁れたり、依て叔父の手負たるを知らざりしに、君の義勇厚きにより、爰に再会するを得たり、恩謝の詞を知らず、何人にて座すや、御姓名を承はらんと言ふ。虎胤、先に御辺の叔父の名を問ふに答へず、我又何を名乗るべき、只老人の手負を痛は敷思ふを以て送るのみ、幸に其甥子達に廻ぐり会うて、之を附属するを得たり、我本懐達せり、但し御辺の姓名を聞て帰るにあらざれば、我主君に答ふる詞なしと言ふ。其六七人の者名乗るには、主君に告けずば後の咎あらん、いざ之を告んと言て、陣中に入る。其時此手負虎胤に申様、君は年若しと雖も、勇武関東に比類あるべからず、某等幾人寄りても及ぶべからず、我腰差の瓢箪は、千葉殿の見知り給ふ物なり、甥共の腰差も、又瓢箪なり、某と合はせて八つあり、君に付与し参らすべし、之を印とせば、姓名を告るに及ぶまじと。虎胤之を受取り、再び姓名を問はず。本陣に帰り、此事を勝胤に告ぐ。勝胤虎胤が周旋を壮なりとして、是より八瓢箪を以て差物と為さしむ。其後虎胤是を差して戦場に望む。
書き下し
能登守友胤の子、武田氏に仕て、美濃守と稱す。後髮を剃り清嵒と號す。永祿七年卒す。 ○虎胤、初め父と共に千葉介勝胤に仕ふ。一年胤勝常陸の兵と戰て大に勝ち、敵の陣を追拂ひ、小荷駄を分捕しけるに、一人の老武者痛手にて、小荷駄備に疵を灸治して居たり。名を問へど答へず、只首を取れと言ふ。勝胤殺すに忍びず、速に此處を去れと言ふ。其武者手負なれば、去るに堪へずと言ふ。虎胤、勝胤に向ひ、某此武者を送り、常陸の陣に赴んと請ふ。勝胤之を許るす。虎胤其武者を掻き負て、敗軍の後を慕ひ行くこと二三里にして、其武者左巴の旗押立て三四百計り眞圓に備たるを見て、願くばあの陣に伴ひ呉れよと言ふ。虎胤其言の如くす。其間百間計りに成りし時、其陣より武者六七人驅け來り、此手負を迎ふ。虎胤何者ぞと問ふ。六七人の者曰く、此老武者は我々が叔父なり、我等が持場の戰急にして、主なる者引彙ね給ふを守護して是まで遁れたり、依て叔父の手負たるを知らざりしに、君の義勇厚きにより、爰に再會するを得たり、恩謝の詞を知らず、何人にて座すや、御姓名を承はらんと言ふ。虎胤、先に御邊の叔父の名を問ふに答へず、我又何を名乘るべき、只老人の手負を痛は敷思ふを以て送るのみ、幸に其甥子達に廻ぐり會うて、之を附屬するを得たり、我本懷達せり、但し御邊の姓名を聞て歸るにあらざれば、我主君に答ふる詞なしと言ふ。其六七人の者名乘るには、主君に告けずば後の咎あらん、いざ之を告んと言て、陣中に入る。其時此手負虎胤に申樣、君は年若しと雖も、勇武關東に比類あるべからず、某等幾人寄りても及ぶべからず、我腰差の瓢箪は、千葉殿の見知り給ふ物なり、甥共の腰差も、又瓢箪なり、某と合はせて八つあり、君に付與し參らすべし、之を印とせば、姓名を告るに及ぶまじと。虎胤之を受取り、再び姓名を問はず。本陣に歸り、此事を勝胤に告ぐ。勝胤虎胤が周旋を壯なりとして、是より八瓢箪を以て差物と爲さしむ。其後虎胤是を差して戰場に望む。
現代語訳
能登守友胤の子で、武田氏に仕えて美濃守と称しました。後に髪を剃って清巌と号しました。永禄七年に亡くなりました。 虎胤は初め、父とともに千葉介勝胤に仕えていました。ある年、勝胤が常陸の兵と戦って大勝し、敵の陣を追い払って、小荷駄を分捕りましたが、そこに一人の老武者が重傷を負い、小荷駄の備えの中で傷を灸治していました。名を問うても答えず、ただ首を取れと言います。勝胤は殺すに忍びず、速やかにここを去れと言いました。その武者は負傷しているので去ることができないと言います。虎胤は勝胤に向かって、「私がこの武者を送り、常陸の陣に赴きたい」と願い出ました。勝胤はこれを許しました。虎胤はその武者をかき背負って、敗軍の後を慕って行くこと二、三里、その武者は左巴の旗を押し立てた三、四百ばかりが真円に備えているのを見て、「どうかあの陣に連れて行ってくれ」と言いました。虎胤はその言葉どおりにしました。その間が百間ばかりになったとき、その陣から武者六、七人が駆けて来て、この負傷者を迎えました。虎胤が何者かと問うと、六、七人の者は、「この老武者は我々の叔父です。我々の持ち場の戦が急で、主なる者が引き揚げるのを守護してここまで逃れたため、叔父の負傷を知りませんでした。あなたの義勇が厚いおかげで、ここに再会できました。恩謝の言葉もありません。どなたでいらっしゃいますか、お名前を承りたい」と言いました。虎胤は、「先に、あなた方の叔父の名を問うたが答えなかった。私もまた何を名乗ろう。ただ老人の負傷を痛ましく思って送るだけだ。幸いにその甥御たちにめぐり会い、これを引き渡すことができて、私の本懐は達した。ただし、あなた方の姓名を聞いて帰らなければ、わが主君に答える言葉がない」と言いました。その六、七人の者は、「主君に告げなければ後に咎めがあるだろう。いざこれを告げよう」と言って陣中に入りました。そのとき、この負傷者が虎胤に言いました。「あなたは年若いが、勇武は関東に比類がないだろう。私どもは幾人寄っても及ばない。私の腰に差した瓢箪は、千葉殿もご存じの物だ。甥たちの腰差しもまた瓢箪で、私と合わせて八つある。あなたに差し上げよう。これを印とすれば、姓名を告げるにも及ぶまい」。虎胤はこれを受け取り、再び姓名を問いませんでした。本陣に帰り、この事を勝胤に告げました。勝胤は虎胤の計らいを壮と認め、これより八つの瓢箪を差物とさせました。その後、虎胤はこれを差して戦場に臨みました。
解説

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