名将言行録 / 『名将言行録』原虎胤 十七歳の一騎討ちと紙旗の兵
常陸勢之を見知りて、是こそ千葉の勇士なれと、諸卒戰を止めて、之を見物す。遂に虎胤なりと人知りて、其名聞ゆるに至る。然るに一手の武者虎胤を取籠めて打んとす。虎胤縱橫奮擊して、三人を打取り、四人に手を負はせ、猶鎗を執て進む所へ、一人の武者押並びて、無手と組む。虎胤如何にかしけん、組み敷れぬ。下より刎ね返さんとするに、左右の手を踏まれて、働くこと能はず。既に首を搔んとして、內兜を見、又半首の脱づれより、顏を見て、何とかしけん、此男太刀を取直し自ら首を搔落す。虎胤不思議に思ひて、此男の面を見れば、彼武者が甥と言ひたる者なり。戰果てゝ之を尋ぬれば、水谷伊勢守勝氏の家臣牛久次郞三郞隆直と云ひし者なり。虎胤時に年十七。 ○韮崎の役、辰より未に至り、四合、去れども勝敗決せず。虎胤時に甲斐の留守たりしが、國中の農商を募り五千人を得、卽ち弊甲を被むらせ、竹鎗を執らしめ、人毎に一の紙旗を負はしめ、鼓譟して至る。信濃軍之を顧て、驚擾し、晴信乃ち麾下を以て掩擊して之を破り、首を斬ること二千餘級。
新字:常陸勢之を見知りて、是こそ千葉の勇士なれと、諸卒戦を止めて、之を見物す。遂に虎胤なりと人知りて、其名聞ゆるに至る。然るに一手の武者虎胤を取籠めて打んとす。虎胤縦横奮撃して、三人を打取り、四人に手を負はせ、猶鎗を執て進む所へ、一人の武者押並びて、無手と組む。虎胤如何にかしけん、組み敷れぬ。下より刎ね返さんとするに、左右の手を踏まれて、働くこと能はず。既に首を搔んとして、内兜を見、又半首の脱づれより、顔を見て、何とかしけん、此男太刀を取直し自ら首を搔落す。虎胤不思議に思ひて、此男の面を見れば、彼武者が甥と言ひたる者なり。戦果てゝ之を尋ぬれば、水谷伊勢守勝氏の家臣牛久次郎三郎隆直と云ひし者なり。虎胤時に年十七。 ○韮崎の役、辰より未に至り、四合、去れども勝敗決せず。虎胤時に甲斐の留守たりしが、国中の農商を募り五千人を得、即ち弊甲を被むらせ、竹鎗を執らしめ、人毎に一の紙旗を負はしめ、鼓譟して至る。信濃軍之を顧て、驚擾し、晴信乃ち麾下を以て掩撃して之を破り、首を斬ること二千余級。
書き下し
常陸勢之を見知りて、是こそ千葉の勇士なれと、諸卒戰を止めて、之を見物す。遂に虎胤なりと人知りて、其名聞ゆるに至る。然るに一手の武者虎胤を取籠めて打んとす。虎胤縱橫奮擊して、三人を打取り、四人に手を負はせ、猶鎗を執て進む所へ、一人の武者押並びて、無手と組む。虎胤如何にかしけん、組み敷れぬ。下より刎ね返さんとするに、左右の手を踏まれて、働くこと能はず。既に首を搔んとして、內兜を見、又半首の脱づれより、顏を見て、何とかしけん、此男太刀を取直し自ら首を搔落す。虎胤不思議に思ひて、此男の面を見れば、彼武者が甥と言ひたる者なり。戰果てゝ之を尋ぬれば、水谷伊勢守勝氏の家臣牛久次郞三郞隆直と云ひし者なり。虎胤時に年十七。 ○韮崎の役、辰より未に至り、四合、去れども勝敗決せず。虎胤時に甲斐の留守たりしが、國中の農商を募り五千人を得、卽ち弊甲を被むらせ、竹鎗を執らしめ、人毎に一の紙旗を負はしめ、鼓譟して至る。信濃軍之を顧て、驚擾し、晴信乃ち麾下を以て掩擊して之を破り、首を斬ること二千餘級。
現代語訳
常陸勢はこれを見て、あれこそ千葉の勇士だと知り、兵たちは戦いをやめて見物しました。やがて虎胤だと人々に知られ、その名が広まるに至りました。ところが一団の武者が虎胤を取り囲んで討ち取ろうとしました。虎胤は縦横に奮戦して三人を討ち取り、四人に傷を負わせ、なお槍を持って進むところへ、一人の武者が馬を並べ、いきなり組みついてきました。虎胤はどうしたことか組み伏せられてしまいました。下からはね返そうとしても左右の手を踏まれて動けません。相手はすでに首をかこうとしましたが、内兜を見、また半首が外れたところから顔を見て、何を思ったのか、この男は太刀を持ち直して自分の首をかき落としました。虎胤は不思議に思い、この男の顔を見ると、さきの武者が甥だと言っていた者でした。戦が終わって尋ねてみると、水谷伊勢守勝氏の家臣、牛久次郎三郎隆直という者でした。虎胤はこのとき十七歳でした。 韮崎の戦いで、辰の刻から未の刻まで四度ぶつかりましたが、勝敗は決しませんでした。虎胤はそのとき甲斐の留守を預かっていましたが、国中の農民や商人を募って五千人を得、すぐに古びた鎧を着せ、竹の槍を持たせ、一人ずつ紙の旗を背負わせて、鬨の声をあげて駆けつけました。信濃の軍はこれを振り返って驚き乱れ、晴信は直属の兵で襲いかかってこれを破り、二千余りの首を取りました。
解説

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