講孟余話 / 告子下 第二章
此章、徐行疾行ヲ以テ孝弟ヲ論シ、言行衣服ヲ以テ堯桀ヲ分ツ、言淺近ナリト云トモ、其然ル所以ノ故ヲ求メハ、性ノ本然道ノ全体具ニ茲ニ存スルハ勿論ナリ、然トモ心ヲ舍テ言行ヲ論スルハ至論ニ非ズ、若此論ノミヲ信セハ、巧言令色、足恭色莊ノ者ヲ以テ孝弟トシ、堯舜トスルノ誤アラン、又或ハ義外ノ說ニ陷リ、道ヲ以テ僞トナスニ近カラン、是亦思ハサルヘカラス、故ニ註ニ詳曹交之間、淺陋麤率、必其進見之時、礼貌衣冠言動之間、多不循礼、故孟子告之、如此両節云、トアリ、然トモ曹交ノ淺陋麤率專ラ言語上ニ於テ求ムヘカラス、唯言語外ニ於テ其精神ヲ想像スヘシ、然ラスンハ十尺九尺ノ言淺陋ノ如シト云トモ、上篇第七章足口耳目ノ喩ノ如キモ亦相類スト云ヘシ、故ニ其淺陋ノ所ハ十尺九尺ニ非ス、其言語動作ノ間少モ精神ナキノミ、又梁襄王ヲ以テ曹交ニ比シ、其優劣ヲ臆度センニ、襄王ハ小才アリテ絕テ実心ナシ、曹交ハ遲鈍ノ極ト云トモ、却テ少シノ実心アリ、故ニ襄王ハ必事ヲ誤ル人ナリ、曹交ニ至テハ却テ大誤ナカルヘシ、千古ノ人ヲ懸空ニ論スルハ無益ナレトモ、亦致格ノ一端ナランカ
新字:此章、徐行疾行ヲ以テ孝弟ヲ論シ、言行衣服ヲ以テ堯桀ヲ分ツ、言浅近ナリト云トモ、其然ル所以ノ故ヲ求メハ、性ノ本然道ノ全体具ニ茲ニ存スルハ勿論ナリ、然トモ心ヲ舎テ言行ヲ論スルハ至論ニ非ズ、若此論ノミヲ信セハ、巧言令色、足恭色荘ノ者ヲ以テ孝弟トシ、堯舜トスルノ誤アラン、又或ハ義外ノ説ニ陥リ、道ヲ以テ偽トナスニ近カラン、是亦思ハサルヘカラス、故ニ註ニ詳曹交之間、浅陋麤率、必其進見之時、礼貌衣冠言動之間、多不循礼、故孟子告之、如此両節云、トアリ、然トモ曹交ノ浅陋麤率専ラ言語上ニ於テ求ムヘカラス、唯言語外ニ於テ其精神ヲ想像スヘシ、然ラスンハ十尺九尺ノ言浅陋ノ如シト云トモ、上篇第七章足口耳目ノ喩ノ如キモ亦相類スト云ヘシ、故ニ其浅陋ノ所ハ十尺九尺ニ非ス、其言語動作ノ間少モ精神ナキノミ、又梁襄王ヲ以テ曹交ニ比シ、其優劣ヲ臆度センニ、襄王ハ小才アリテ絶テ実心ナシ、曹交ハ遅鈍ノ極ト云トモ、却テ少シノ実心アリ、故ニ襄王ハ必事ヲ誤ル人ナリ、曹交ニ至テハ却テ大誤ナカルヘシ、千古ノ人ヲ懸空ニ論スルハ無益ナレトモ、亦致格ノ一端ナランカ
書き下し
此の章、徐行疾行を以て孝弟を論じ、言行衣服を以て堯桀を分つ。言浅近なりと云へども、其の然る所以の故を求めば、性の本然道の全体具に茲に存するは勿論なり。然れども心を舎てて言行を論ずるは至論に非ず。若し此の論のみを信ぜば、巧言令色、足恭色荘の者を以て孝弟とし、堯舜とするの誤りあらん。又或は義外の説に陥り、道を以て偽となすに近からん。是れ亦思はざるべからず。故に註に「詳らかにするに曹交の間、浅陋麤率、必ず其の進見の時、礼貌衣冠言動の間、多く礼に循はず、故に孟子之に告ぐること此の両節の如し」と云ふとあり。然れども曹交の浅陋麤率専ら言語上に於て求むべからず。唯言語外に於て其の精神を想像すべし。然らずんば十尺九尺の言浅陋の如しと云へども、上篇第七章足口耳目の喩の如きも亦相類すと云ふべし。故に其の浅陋の所は十尺九尺に非ず、其の言語動作の間少しも精神なきのみ。又梁襄王を以て曹交に比し、其の優劣を臆度せんに、襄王は小才ありて絶えて実心なし。曹交は遅鈍の極みと云へども、却つて少しの実心あり。故に襄王は必ず事を誤る人なり。曹交に至りては却つて大誤なかるべし。千古の人を懸空に論ずるは無益なれども、亦致格の一端ならんか。
現代語訳
この章は、ゆっくり歩くか急いで歩くかで孝悌を論じ、言葉や行いや衣服で堯と桀を分けている。言葉は浅く身近だが、そうである理由を求めれば、性の本来の姿、道の全体がことごとくここにあるのは言うまでもない。しかし心を捨てて言葉や行いだけを論じるのは、最上の論ではない。もしこの論だけを信じれば、口先がうまく顔つきを飾る者、うやうやしすぎる者、顔だけ厳かな者を、孝悌だ、堯舜だとする誤りがあるだろう。また義は外にあるという説に陥り、道を偽りとすることに近くなるだろう。これもまた考えなければならない。だから朱子の注に「よく見ると、曹交の質問は浅くて粗雑である。きっと孟子に会ったとき、礼儀・身なり・言葉づかい・振る舞いに礼にかなわないところが多かったので、孟子はこの二節のように告げたのだ」とある。けれども曹交の浅さ粗雑さを、もっぱら言葉の上に求めてはならない。ただ言葉の外にその精神を思い描くべきである。そうでなければ、十尺だの九尺だのという言葉が浅いと言っても、上篇第七章の足・口・耳・目の喩えのようなものも同類だと言わねばならなくなる。だからその浅さは十尺九尺の言葉にあるのではなく、言葉や動作の間に少しも精神がないことにある。また梁の襄王を曹交と比べて、その優劣を推し量ってみると、襄王は小才があってまったく誠実さがない。曹交は鈍いことこの上ないが、かえって少しの誠実さがある。だから襄王は必ず事を誤る人である。曹交はかえって大きな誤りはないだろう。千年も前の人を空で論じるのは無益だが、これも物事を窮める一端にはなるだろうか。
解説
この章句が説くこと
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