名将言行録 / 『名将言行録』武田信繁 兄に家を渡す弟
陸奧守信虎の二子、左馬助と稱す。天文廿三年八月十八日戰死、年三十七。 ○信虎、信繁に家を讓らんとし、家に傳はりたる寶器を一品づゝ信繁に付與す。信繁之を受取りて、潜に兄の晴信の方に送れり。 ○信虎、信繁を愛し、嫡子晴信を廢するの心あり。之に依り信虎と、晴信との間不和なりしに、群臣何れも晴信の武略に長じたるを見て、信虎を捨てゝ晴信に服從す。晴信群臣と謀て、信虎を駿河に誘引出して、之を拒みし程に、信虎、甲斐に歸ること能はず。信虎は今川氏眞が外祖父たるにより、駿河の寄公と爲りて、年を歴けれども、晴信終に父を迎へて國に入るゝことなし。信虎、後に京師に落魄して、一生をなん終りける。信虎晴信を廢し、信繁を立んとするをば、兼ねて晴信も知りたることとなるに、信繁其嫌忌の間に處しながら、晴信に仕へて兄弟の間、少しも違言あることなし。朝夕國に慘々として、人臣の節を失はず。其忠信誠實人を感孚するの遠き、友愛の心なき晴信と雖も、常に信任して、疑忌の心なく、始終一の如くにぞありける。
新字:陸奥守信虎の二子、左馬助と称す。天文廿三年八月十八日戦死、年三十七。 ○信虎、信繁に家を譲らんとし、家に伝はりたる宝器を一品づゝ信繁に付与す。信繁之を受取りて、潜に兄の晴信の方に送れり。 ○信虎、信繁を愛し、嫡子晴信を廃するの心あり。之に依り信虎と、晴信との間不和なりしに、群臣何れも晴信の武略に長じたるを見て、信虎を捨てゝ晴信に服従す。晴信群臣と謀て、信虎を駿河に誘引出して、之を拒みし程に、信虎、甲斐に帰ること能はず。信虎は今川氏真が外祖父たるにより、駿河の寄公と為りて、年を歴けれども、晴信終に父を迎へて国に入るゝことなし。信虎、後に京師に落魄して、一生をなん終りける。信虎晴信を廃し、信繁を立んとするをば、兼ねて晴信も知りたることとなるに、信繁其嫌忌の間に処しながら、晴信に仕へて兄弟の間、少しも違言あることなし。朝夕国に惨々として、人臣の節を失はず。其忠信誠実人を感孚するの遠き、友愛の心なき晴信と雖も、常に信任して、疑忌の心なく、始終一の如くにぞありける。
書き下し
陸奧守信虎の二子、左馬助と稱す。天文廿三年八月十八日戰死、年三十七。 ○信虎、信繁に家を讓らんとし、家に傳はりたる寶器を一品づゝ信繁に付與す。信繁之を受取りて、潜に兄の晴信の方に送れり。 ○信虎、信繁を愛し、嫡子晴信を廢するの心あり。之に依り信虎と、晴信との間不和なりしに、群臣何れも晴信の武略に長じたるを見て、信虎を捨てゝ晴信に服從す。晴信群臣と謀て、信虎を駿河に誘引出して、之を拒みし程に、信虎、甲斐に歸ること能はず。信虎は今川氏眞が外祖父たるにより、駿河の寄公と爲りて、年を歴けれども、晴信終に父を迎へて國に入るゝことなし。信虎、後に京師に落魄して、一生をなん終りける。信虎晴信を廢し、信繁を立んとするをば、兼ねて晴信も知りたることとなるに、信繁其嫌忌の間に處しながら、晴信に仕へて兄弟の間、少しも違言あることなし。朝夕國に慘々として、人臣の節を失はず。其忠信誠實人を感孚するの遠き、友愛の心なき晴信と雖も、常に信任して、疑忌の心なく、始終一の如くにぞありける。
現代語訳
陸奥守信虎の二男で、左馬助と称しました。天文二十三年八月十八日に戦死し、年は三十七でした。 信虎は信繁に家を譲ろうとして、家に伝わる宝器を一品ずつ信繁に与えました。信繁はこれを受け取ると、ひそかに兄の晴信のもとに送りました。 信虎は信繁を愛し、嫡子の晴信を廃する心がありました。そのため信虎と晴信の間は不和でしたが、群臣は皆、晴信が武略に優れているのを見て、信虎を捨てて晴信に服従しました。晴信は群臣と謀って、信虎を駿河に誘い出し、これを拒んだため、信虎は甲斐に帰ることができませんでした。信虎は今川氏真の外祖父であることから、駿河の寄公となって年月を過ごしましたが、晴信はついに父を迎えて国に入れることはありませんでした。信虎は後に京都に落ちぶれて、一生を終えました。信虎が晴信を廃し信繁を立てようとしていたことは、かねて晴信も知っていたことでしたが、信繁はその嫌疑の間にありながら、晴信に仕えて、兄弟の間に少しも違言がありませんでした。朝夕、国のためにひたすら心を砕き、人臣の節を失いませんでした。その忠信と誠実が人を感じさせることは遠くに及び、友愛の心のない晴信ですら、常に信任して疑う心がなく、終始変わらなかったということです。
解説

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