名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 詩歌と臆病者の使い道
○晴信人となり豪武、善く戰ひ、十六歳より、弓箭を執て、三十八年、終に一度も敵に押付を見せず、又持分の城郡を一つも敵に取られず。又頗る才思あり、好みて書を讀み和歌及び、詩を善くせり。今其一二を擧ぐ。「題二便面鴈圖一。」水綠山青欲レ雨初。數行鴻雁度二長虛一。天涯高處要二通信一。定可二蘇卿胡地書一。又「惜二落花一。」檐外紅殘三四峰。蜂狂蝶醉景猶濃、遊人亦借二漁翁手一。網二住飛花一至二晩鐘一。嘗て一蓮寺に遊び松間花に題して曰く、「立並ぶ、甲斐こそなけれ、櫻花松に千歳の色はならはで。」 ○武田氏亡びて後、家康、北條と迫合しことあり。時に日向が相備七人まで、一度も手に逢はず、家康臆病者なり、改易すべしと言はる。今井九兵衞臆病仕ること、尤に候、信玄の時、彼者共一度も手に逢申さずと言ふ。家康夫程の者ならば、尚以て役に立間敷と言はる。九兵衞然れども信玄は殊の外馳走仕候、仔細は臆病なる者は、方方への使に遣られ候、能き者は使に遣られし後にて、合戰之あり候へば、使に遣られ候を不足に存候、臆病なる者は、夫を喜び參り申候、使に行く先にて、關所、或は舟渡し、總別出入之ある時は、假令天窓を打るゝ程のひけなりとも堪忍仕り、使の埒をば一段首尾能く仕候とのことにて、馳走せられ候と申す。家康手を拍て、尤なりと言て、其役に召使ひしとぞ。
新字:○晴信人となり豪武、善く戦ひ、十六歳より、弓箭を執て、三十八年、終に一度も敵に押付を見せず、又持分の城郡を一つも敵に取られず。又頗る才思あり、好みて書を読み和歌及び、詩を善くせり。今其一二を挙ぐ。「題二便面鴈図一。」水緑山青欲レ雨初。数行鴻雁度二長虚一。天涯高処要二通信一。定可二蘇卿胡地書一。又「惜二落花一。」檐外紅残三四峰。蜂狂蝶酔景猶濃、遊人亦借二漁翁手一。網二住飛花一至二晩鐘一。嘗て一蓮寺に遊び松間花に題して曰く、「立並ぶ、甲斐こそなけれ、桜花松に千歳の色はならはで。」 ○武田氏亡びて後、家康、北条と迫合しことあり。時に日向が相備七人まで、一度も手に逢はず、家康臆病者なり、改易すべしと言はる。今井九兵衛臆病仕ること、尤に候、信玄の時、彼者共一度も手に逢申さずと言ふ。家康夫程の者ならば、尚以て役に立間敷と言はる。九兵衛然れども信玄は殊の外馳走仕候、仔細は臆病なる者は、方方への使に遣られ候、能き者は使に遣られし後にて、合戦之あり候へば、使に遣られ候を不足に存候、臆病なる者は、夫を喜び参り申候、使に行く先にて、関所、或は舟渡し、総別出入之ある時は、仮令天窓を打るゝ程のひけなりとも堪忍仕り、使の埒をば一段首尾能く仕候とのことにて、馳走せられ候と申す。家康手を拍て、尤なりと言て、其役に召使ひしとぞ。
書き下し
○晴信人となり豪武、善く戰ひ、十六歳より、弓箭を執て、三十八年、終に一度も敵に押付を見せず、又持分の城郡を一つも敵に取られず。又頗る才思あり、好みて書を讀み和歌及び、詩を善くせり。今其一二を擧ぐ。「題二便面鴈圖一。」水綠山青欲レ雨初。數行鴻雁度二長虛一。天涯高處要二通信一。定可二蘇卿胡地書一。又「惜二落花一。」檐外紅殘三四峰。蜂狂蝶醉景猶濃、遊人亦借二漁翁手一。網二住飛花一至二晩鐘一。嘗て一蓮寺に遊び松間花に題して曰く、「立並ぶ、甲斐こそなけれ、櫻花松に千歳の色はならはで。」 ○武田氏亡びて後、家康、北條と迫合しことあり。時に日向が相備七人まで、一度も手に逢はず、家康臆病者なり、改易すべしと言はる。今井九兵衞臆病仕ること、尤に候、信玄の時、彼者共一度も手に逢申さずと言ふ。家康夫程の者ならば、尚以て役に立間敷と言はる。九兵衞然れども信玄は殊の外馳走仕候、仔細は臆病なる者は、方方への使に遣られ候、能き者は使に遣られし後にて、合戰之あり候へば、使に遣られ候を不足に存候、臆病なる者は、夫を喜び參り申候、使に行く先にて、關所、或は舟渡し、總別出入之ある時は、假令天窓を打るゝ程のひけなりとも堪忍仕り、使の埒をば一段首尾能く仕候とのことにて、馳走せられ候と申す。家康手を拍て、尤なりと言て、其役に召使ひしとぞ。
現代語訳
晴信は人となりが豪胆で武勇があり、よく戦いました。十六歳から弓矢を取って三十八年、ついに一度も敵に押し付けを見せず、また領有する城や郡を一つも敵に取られませんでした。またたいそう才思があり、好んで書を読み、和歌や詩を善くしました。今、その一、二を挙げます。「扇面の雁の図に題す」。水は緑に山は青く、雨が降り出そうとする初めの頃、幾列かの雁が遠い大空を渡っていく。天の果ての高い所で便りを通じたいと願うなら、きっと蘇武が胡の地から送った手紙のようになるだろう。また「落花を惜しむ」。軒の外に紅の花が三、四の峰にわずかに残り、蜂は狂い蝶は酔って景色はなお濃い。遊ぶ人もまた漁翁の手を借りて、網で飛ぶ花を捕らえ、夕べの鐘に至るまで惜しんでいる。かつて一蓮寺に遊んで、松の間の花に題して言いました。「立ち並んでも甲斐がない、櫻花は松のように千年の色を習っていないので」。 武田氏が亡びた後、家康が北条と戦ったことがありました。そのとき日向の相備えの七人が一度も役に立たなかったので、家康は「臆病者だ、改易せよ」と言いました。今井九兵衛は「臆病と仰せなのはもっともです。信玄の時にも、あの者たちは一度も役に立ちませんでした」と言いました。家康が「それほどの者ならなおさら役に立つまい」と言うと、九兵衛は「しかし信玄はことのほか手厚く扱いました。そのわけは、臆病な者は方々への使いに遣わされます。優れた者は使いに遣わされた後に合戦があるので、使いに遣わされるのを不満に思いますが、臆病な者はそれを喜んで参ります。使いに行く先で関所や舟渡しなど、すべて出入りの揉め事があるとき、たとえ頭を打たれるほどの侮りでも堪え忍び、使いの務めを大変うまく果たすので、手厚く扱われたのです」と言いました。家康は手を打って「もっともだ」と言い、その役に召し使ったということです。
解説

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説苑・政理子產、鄭に相たり。簡公、子產に謂いて曰く、「內政は出す毋かれ、外政は入る毋かれ。夫れ衣裘の美ならざる、車馬の飾らざる、子女の潔からざるは、寡人の醜なり。國家の治まらざる、封疆の正しからざるは、夫子の醜なり。」子產、鄭に相たり、簡公の身を終うるまで、內には國中の亂無く、外には諸侯の患無し。子產の政に從うや、能を擇びて之を使う。馮簡子は事を斷ずるに善く、子太叔は決するに善くして文あり、公孫揮は四國の為す所を知りて其の大夫の族姓を辨じ、變じて立ちどころに至り、又善く辭令を為す。裨諶は謀るに善く、野に於ては獲るも邑に於ては否らず。事有れば乃ち裨諶を載せて之と野に適き、謀りて可否を使め、告げて馮簡子をして之を斷ぜしめ、公孫揮をして之が辭令を為さしめ、成りて乃ち子太叔受けて之を行わしめ、以て賓客に應對す。是を以て鮮に敗事有り。
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説苑・修文天子諸侯事無ければ則ち歲に三たび田す、一を乾豆と為し、二を賓客と為し、三を君の庖に充つと為す。事無くして田せざるを、不敬と曰い、田するに禮を以てせざるを、天物を暴うと曰う。天子は合圍せず、諸侯は群を揜わず。天子殺せば則ち大緌を下し、諸侯殺せば則ち小緌を下し、大夫殺せば則ち佐轝を止め、佐轝止まれば則ち百姓畋獵す。獺魚を祭りて、然る後漁人澤梁に入る。鳩化して鴈と為りて、然る後罻羅を設く。草木零落して、然る後山林に入る。昆蟲蟄せざれば火田せず、麛せず卵せず、殀夭せず、巢を覆さず。此れ皆聖人上に在り、君子位に在り、能者職に在るは、大德の發する所なり。是の故に皋陶大理と為るや、民各おの服して其の實を得。伯夷禮を主どり、上下皆讓る。倕工師と為り、百工功を致す。益虞を主どり、山澤辟き成る。棄稷を主どり、百穀時に茂る。契司徒を主どり、百姓親和す。龍賓客を主どり、遠人至る。十二牧行われて、九州敢えて僻違せず。禹九澤を陂き、九道を通じ、九州を定め、各おの其の職を以て來貢し、厥の宜しきを失わず、方五十里より荒服に至る。南は交趾・大發を撫し、西は析支渠・搜氐羌に、北は山戎・肅慎に至り、東は長夷・島夷に至り、四海の內皆帝舜の功を戴く。是に於て禹乃ち九韶の樂を興し、異物を致し、鳳凰來翔し、天下德を明らかにするなり。
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『長短経』量才〔清節の徳は師氏の任なり。法家の材は司寇の任なり。術家の材は三孤の任なり。臧否の材は師氏の任なり。伎倆の材は司空の任なり。儒学の材は保氏の任なり。文章の材は国史の任なり。驍雄の材は将帥の任なり。〕
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説苑・雜言仲尼曰く、「其の地に非ずして之を樹うれば、生ぜざるなり。其の人に非ずして之に語れば、聴かざるなり。其の人を得れば、沙を聚めて之に雨降らすが如く、其の人に非ざれば、聾を聚めて之に鼓するが如し」と。
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『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事惣して役儀は其人の得手不得手ある事なり、不得手なる役に申付たるときは役儀の捌き宜しからさるなり、さるに依て之を替んとすれは席を上くるか下くるかせねは役替られぬなり、上かりの役に申付たるは立身になる、下かりの役に申付たるは、その人のいつくするもとより褒美歟、又は懲しめのためならは、あけてもよけんとも、只其人の得手なるむきに、換ゆるまてのことにて、別に褒美にても、懲しめにてもなきに、席を上け下けすること、詮もなきこと、又害も有なり、然れは同席の役をいくつも拵へ置く時は此の差支なきなり、されとも当時は席に名無く、唯〻此役の席と云ふことなる故、役と席とを別々にすへきやうなし、其上席に名を付け置さる故、混乱して、紛はしかるへし、
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『晏子春秋』問上・景公問古之蒞國者任人如何晏子對以人不同能景公、晏子に問いて曰く、「古の国に蒞み民を治むる者は、其の人に任ずること何如」と。晏子対えて曰く、「地は生を同じくせざるに、之に任ずるに一種を以てし、其の倶に生ぜんことを責むるも得可からず。人は能を同じくせざるに、之に任ずるに一事を以てし、遍く成さんことを責む可からず。責めて已む無く、智者も給する能わざる有り。求めて饜く無く、天地も贍す能わざる有り。故に明王の人に任ずるや、諂諛は左右に邇づかず、阿党は本朝に治せず。人の長に任じて、其の短を強いず。人の工に任じて、其の拙を強いず。此れ人に任ずるの大略なり」と。