説苑 / 政理
子產相鄭,簡公謂子產曰:「內政毋出,外政毋入。夫衣裘之不美,車馬之不飾,子女之不潔,寡人之醜也;國家之不治,封疆之不正,夫子之醜也。」子產相鄭,終簡公之身,內無國中之亂,外無諸侯之患也;子產之從政也,擇能而使之:馮簡子善斷事,子太叔善決而文,公孫揮知四國之為而辨於其大夫之族姓,變而立至,又善為辭令,裨諶善謀,於野則獲,於邑則否,有事乃載裨諶與之適野,使謀可否,而告馮簡子斷之,使公孫揮為之辭令,成乃受子太叔行之,以應對賓客,是以鮮有敗事也。
新字:子産相鄭,簡公謂子産曰:「内政毋出,外政毋入。夫衣裘之不美,車馬之不飾,子女之不潔,寡人之醜也;国家之不治,封疆之不正,夫子之醜也。」子産相鄭,終簡公之身,内無国中之乱,外無諸侯之患也;子産之従政也,択能而使之:馮簡子善断事,子太叔善決而文,公孫揮知四国之為而弁於其大夫之族姓,変而立至,又善為辞令,裨諶善謀,於野則獲,於邑則否,有事乃載裨諶与之適野,使謀可否,而告馮簡子断之,使公孫揮為之辞令,成乃受子太叔行之,以応対賓客,是以鮮有敗事也。
書き下し
子產、鄭に相たり。簡公、子產に謂いて曰く、「內政は出す毋かれ、外政は入る毋かれ。夫れ衣裘の美ならざる、車馬の飾らざる、子女の潔からざるは、寡人の醜なり。國家の治まらざる、封疆の正しからざるは、夫子の醜なり。」子產、鄭に相たり、簡公の身を終うるまで、內には國中の亂無く、外には諸侯の患無し。子產の政に從うや、能を擇びて之を使う。馮簡子は事を斷ずるに善く、子太叔は決するに善くして文あり、公孫揮は四國の為す所を知りて其の大夫の族姓を辨じ、變じて立ちどころに至り、又善く辭令を為す。裨諶は謀るに善く、野に於ては獲るも邑に於ては否らず。事有れば乃ち裨諶を載せて之と野に適き、謀りて可否を使め、告げて馮簡子をして之を斷ぜしめ、公孫揮をして之が辭令を為さしめ、成りて乃ち子太叔受けて之を行わしめ、以て賓客に應對す。是を以て鮮に敗事有り。
現代語訳
子産が鄭の宰相であった。簡公は子産に言った、「内政の事は(私に)漏らさなくてよい、外交の事は(私に)差し挟まなくてよい(=それぞれ任せる)。衣服や皮衣が立派でないこと、車馬が飾られていないこと、后妃や子女の身なりが清潔でないことは、私(君主)の恥である。国家が治まらないこと、国境が正しく定まらないことは、あなた(宰相)の恥である。」子産が鄭の宰相であった間、簡公が世を終えるまで、国内には乱がなく、対外的にも諸侯との紛争はなかった。子産が政治を行うにあたっては、それぞれの能力に応じて人を選び用いた。馮簡子は物事を的確に判断することに優れ、子太叔は決断力があり物腰も上品であった。公孫揮は四方の国々の動静を知り、諸国の大夫の家柄や人物にも通じ、状況の変化にも即座に対応でき、また外交辞令にも巧みであった。裨諶は謀を巡らすことに優れていたが、野外で考えれば良い案が浮かぶものの、町中では浮かばなかった。何か事があれば、裨諶を馬車に乗せて共に郊外へ赴かせ、そこで計画を練らせて可否を決めさせ、それを馮簡子に告げて判断を下させ、公孫揮に外交の辞令を作らせ、案が完成すると子太叔がそれを受け取って実行し、賓客への応対に当たった。こうしたやり方であったので、事がしくじることは稀であった。
解説

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