名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 武辺物語の四童子
○又曰く、人は童子の時より知れり。先づ武邊物語の席に童子四人あり。一人は口を明き、語る者の顏計り見て聞き、二人目は耳を澄して、些と俯きて聞き、三人目は、語る人の顏を見て少しづゝ笑ひ、意味顏し、四人目は、其物語を聞て、其席を退く。箇樣に色々あり、先づ始のうか/\と聞く童は、後までも其心の如く、如何に武邊場數ありても、跡先の辨もなく、似合敷家來をも持たず異見をも受る樣なる朋友もなき者なり。二番に耳を澄して聞く童は、後には横田備中、原美濃、小幡山城、多田淡路、山本勘介抔の如き、武邊覺えの者に成るなり。三番に話を聞て、莞爾と笑て、面白がる童は、後に武邊譽れの者に必ず成ると雖も、餘り過ぎて、權高くして、人に惡みを得る者なり。四番に、其座を立つ童は、後に十人の中に八九人は臆病者なり、假令一二人未練になくとも、人の後に付き、合戰迫合の時、追頸を取ても、鎗下の高名せし樣に言ひ、又能き武士の功名せしを、嫉み惡む者なりと。
新字:○又曰く、人は童子の時より知れり。先づ武辺物語の席に童子四人あり。一人は口を明き、語る者の顔計り見て聞き、二人目は耳を澄して、些と俯きて聞き、三人目は、語る人の顔を見て少しづゝ笑ひ、意味顔し、四人目は、其物語を聞て、其席を退く。箇様に色々あり、先づ始のうか/\と聞く童は、後までも其心の如く、如何に武辺場数ありても、跡先の弁もなく、似合敷家来をも持たず異見をも受る様なる朋友もなき者なり。二番に耳を澄して聞く童は、後には横田備中、原美濃、小幡山城、多田淡路、山本勘介抔の如き、武辺覚えの者に成るなり。三番に話を聞て、莞爾と笑て、面白がる童は、後に武辺誉れの者に必ず成ると雖も、余り過ぎて、権高くして、人に悪みを得る者なり。四番に、其座を立つ童は、後に十人の中に八九人は臆病者なり、仮令一二人未練になくとも、人の後に付き、合戦迫合の時、追頸を取ても、鎗下の高名せし様に言ひ、又能き武士の功名せしを、嫉み悪む者なりと。
書き下し
○又曰く、人は童子の時より知れり。先づ武邊物語の席に童子四人あり。一人は口を明き、語る者の顏計り見て聞き、二人目は耳を澄して、些と俯きて聞き、三人目は、語る人の顏を見て少しづゝ笑ひ、意味顏し、四人目は、其物語を聞て、其席を退く。箇樣に色々あり、先づ始のうか/\と聞く童は、後までも其心の如く、如何に武邊場數ありても、跡先の辨もなく、似合敷家來をも持たず異見をも受る樣なる朋友もなき者なり。二番に耳を澄して聞く童は、後には横田備中、原美濃、小幡山城、多田淡路、山本勘介抔の如き、武邊覺えの者に成るなり。三番に話を聞て、莞爾と笑て、面白がる童は、後に武邊譽れの者に必ず成ると雖も、餘り過ぎて、權高くして、人に惡みを得る者なり。四番に、其座を立つ童は、後に十人の中に八九人は臆病者なり、假令一二人未練になくとも、人の後に付き、合戰迫合の時、追頸を取ても、鎗下の高名せし樣に言ひ、又能き武士の功名せしを、嫉み惡む者なりと。
現代語訳
また晴信は言いました。人は子どもの時から、その先が知れるものだ。たとえば武辺物語の席に、子どもが四人いるとする。一人目は口を開けて、語る者の顔ばかり見て聞く。二人目は耳を澄まして、少し俯いて聞く。三人目は、語る人の顔を見て少しずつ笑い、意味ありげな顔をする。四人目は、その物語を聞いて、その席を退く。このようにいろいろある。まず初めのぼんやり聞く子どもは、後までもその心のままで、いかに武辺の場数を踏んでも、前後の分別がなく、ふさわしい家来も持たず、意見を聞き入れるような友人もいない者になる。二番目の、耳を澄まして聞く子どもは、後には横田備中、原美濃、小幡山城、多田淡路、山本勘介などのような、武辺に覚えのある者になる。三番目の、話を聞いてにこりと笑い、面白がる子どもは、後に武辺の誉れある者に必ずなるが、あまりに過ぎて、権高で、人に憎まれる者になる。四番目の、その座を立つ子どもは、後に十人の中の八、九人は臆病者である。たとえ一、二人は未練がなくても、人の後について、合戦の追い討ちで首を取っても、槍下の高名をしたように言い、また立派な武士の功名を妬み憎む者になる、と。
解説

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