名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 喉の渇きのように
○晴信常に曰く、諸侍を思ふこと、人の只喉の乾くに、飲み物を好む如くに、存ずること肝要なりと。 ○山縣昌景が同心北地と云ふ者は、伊勢浪人にて、身上十六貫の者なり、知行惡き所なりとて昌景に種々訴訟致すを、山縣が賄人大場民部左衞門と云ふ者、北地は他國の者なりと侮り、昌景に言はず、北地其由傍輩に語り、書置して屠腹せり。是は他國より武田家を望みて來る者はあれども、出る者はなし、此家を出る程なれば、何ぞ武道に惡きことあるかと、餘所の不審を受るも、口惜とてのことなり。傍輩共之を止めければ、北地腹を切る抔と言ふことを侍が一度申出しては、二度止ることなしと言て、自害せり。晴信聞て、大に怒り、大場が一類悉く成敗せり。偖北地を葬りたる甲州東郡清白寺に金子二十兩賜はりけり。 ○晴信、夜話の時、人は大小に寄らず、身を保つこと、一ツあり、何れも之を知りたるやと問ふ。何れも思案に及ばずと申せば、晴信曰く、人は只我仕度事を爲さずして、いやと思ふ事を爲るならば、全く身を持つべしと。 ○晴信曰く、澁柿を伐りて木練を繼ぐは、小身なる者のことなり、中より上の侍、殊に國持ちの人は、猶以て澁柿にて其用を達すること多し。但し德多しと言て、繼てある木練を伐るにはあらず、一切の仕置是理成るべきかと。
新字:○晴信常に曰く、諸侍を思ふこと、人の只喉の乾くに、飲み物を好む如くに、存ずること肝要なりと。 ○山県昌景が同心北地と云ふ者は、伊勢浪人にて、身上十六貫の者なり、知行悪き所なりとて昌景に種々訴訟致すを、山県が賄人大場民部左衛門と云ふ者、北地は他国の者なりと侮り、昌景に言はず、北地其由傍輩に語り、書置して屠腹せり。是は他国より武田家を望みて来る者はあれども、出る者はなし、此家を出る程なれば、何ぞ武道に悪きことあるかと、余所の不審を受るも、口惜とてのことなり。傍輩共之を止めければ、北地腹を切る抔と言ふことを侍が一度申出しては、二度止ることなしと言て、自害せり。晴信聞て、大に怒り、大場が一類悉く成敗せり。偖北地を葬りたる甲州東郡清白寺に金子二十両賜はりけり。 ○晴信、夜話の時、人は大小に寄らず、身を保つこと、一ツあり、何れも之を知りたるやと問ふ。何れも思案に及ばずと申せば、晴信曰く、人は只我仕度事を為さずして、いやと思ふ事を為るならば、全く身を持つべしと。 ○晴信曰く、渋柿を伐りて木練を継ぐは、小身なる者のことなり、中より上の侍、殊に国持ちの人は、猶以て渋柿にて其用を達すること多し。但し徳多しと言て、継てある木練を伐るにはあらず、一切の仕置是理成るべきかと。
書き下し
○晴信常に曰く、諸侍を思ふこと、人の只喉の乾くに、飲み物を好む如くに、存ずること肝要なりと。 ○山縣昌景が同心北地と云ふ者は、伊勢浪人にて、身上十六貫の者なり、知行惡き所なりとて昌景に種々訴訟致すを、山縣が賄人大場民部左衞門と云ふ者、北地は他國の者なりと侮り、昌景に言はず、北地其由傍輩に語り、書置して屠腹せり。是は他國より武田家を望みて來る者はあれども、出る者はなし、此家を出る程なれば、何ぞ武道に惡きことあるかと、餘所の不審を受るも、口惜とてのことなり。傍輩共之を止めければ、北地腹を切る抔と言ふことを侍が一度申出しては、二度止ることなしと言て、自害せり。晴信聞て、大に怒り、大場が一類悉く成敗せり。偖北地を葬りたる甲州東郡清白寺に金子二十兩賜はりけり。 ○晴信、夜話の時、人は大小に寄らず、身を保つこと、一ツあり、何れも之を知りたるやと問ふ。何れも思案に及ばずと申せば、晴信曰く、人は只我仕度事を爲さずして、いやと思ふ事を爲るならば、全く身を持つべしと。 ○晴信曰く、澁柿を伐りて木練を繼ぐは、小身なる者のことなり、中より上の侍、殊に國持ちの人は、猶以て澁柿にて其用を達すること多し。但し德多しと言て、繼てある木練を伐るにはあらず、一切の仕置是理成るべきかと。
現代語訳
晴信はいつも言いました。諸侍を思うことは、人がただ喉が渇いたときに飲み物を求めるように思うことが肝要だ、と。 山県昌景の同心に北地という者がいました。伊勢の浪人で、身上は十六貫の者です。知行が悪い所だと言って昌景にいろいろと訴えましたが、山県の賄人の大場民部左衛門という者が、北地を他国の者だと侮り、昌景に取り次ぎませんでした。北地はその事情を仲間に語り、書き置きを残して切腹しました。これは、他国から武田家を望んで来る者はいても出て行く者はないのに、この家を出るとなれば、何か武道に悪いことがあるのかと、他所から不審を受けるのも口惜しいためでした。仲間たちがこれを止めたところ、北地は「腹を切るなどということを、侍が一度口に出したら、二度とは止められない」と言って自害しました。晴信は聞いて大いに怒り、大場の一族をことごとく成敗しました。そして北地を葬った甲州東郡の清白寺に、金子二十両を与えました。 晴信は夜話のとき、「人は大小によらず、身を保つことに一つの方法がある。皆それを知っているか」と問いました。みな思案が及ばないと言うと、晴信は言いました。「人はただ、自分のしたいことをせず、嫌だと思うことをするなら、全く身を保てる」。 晴信は言いました。渋柿を切って木練を継ぐのは小身の者のすることだ。中より上の侍、特に国持ちの人は、なおさら渋柿でその用を足すことが多い。ただし得が多いからと言って、すでに継いである木練を切るわけではない。すべての仕置きは、この理でよいのではないか、と。
解説

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