名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 師となる人を重んじる
○十二年三月、板垣信形、山本晴幸を薦む。晴信則ち晴幸を招き、二百貫の地を興へり。原昌俊然るべからざる旨を諫む。晴信莞爾として、汝不審すること尤なり、我幼少より一度武家の棟梁と成て、天下を平治せんと欲し、小山田備中守と申合はせ、十四歳の時、竊に三河牛窪に往き、山本と主從の契約を爲し、夫より武者修行と號して、諸國を廻歴させ、國々の風俗を聞かせ、要害は繪圖にさせし故、恰も其地にして、其所を見るに等し、我諸國の風俗地利を能く知ること、是れ晴幸が功にあらずや。偖父信虎廢去の後は、彼れ目付として、駿河に差置く、晴幸程の者實に今川家を望まば、九ヶ年の間、如何で茫然として駿河に滯留せんや、今に於ては、我勇名隣國に響き、今川家の如き恐る〻に足らず、信形が薦めを幸にし、今呼寄するものなり。當代にして、弓箭の智識ならんぞ、向後晴信が師範なれば、汝等も水魚の交を爲して、此上に猶軍學懈怠すべからずと言はれければ、昌俊感歎して退けり。 ○十四年五月、板垣信形、萩原某の諫を用ひず、小笠原長時、木曾良高等と戰て大に敗れ、騎士二十餘人、歩卒百五十餘人を亡ふ。軍中相語て曰く、板垣諫めを用ひず、終に以て敗を取れり、罪譴必ず至らんと。信形之を大に悔み、營を閉ぢ罪を待つ、晴信、信形を召し、敵の譎謀に陷り、大敗を取らざるは、卿、老兵の力なり、以て意に介すること勿れと言て、將たらしむること故の如し。
新字:○十二年三月、板垣信形、山本晴幸を薦む。晴信則ち晴幸を招き、二百貫の地を興へり。原昌俊然るべからざる旨を諫む。晴信莞爾として、汝不審すること尤なり、我幼少より一度武家の棟梁と成て、天下を平治せんと欲し、小山田備中守と申合はせ、十四歳の時、窃に三河牛窪に往き、山本と主従の契約を為し、夫より武者修行と号して、諸国を廻歴させ、国々の風俗を聞かせ、要害は絵図にさせし故、恰も其地にして、其所を見るに等し、我諸国の風俗地利を能く知ること、是れ晴幸が功にあらずや。偖父信虎廃去の後は、彼れ目付として、駿河に差置く、晴幸程の者実に今川家を望まば、九ヶ年の間、如何で茫然として駿河に滞留せんや、今に於ては、我勇名隣国に響き、今川家の如き恐る〻に足らず、信形が薦めを幸にし、今呼寄するものなり。当代にして、弓箭の智識ならんぞ、向後晴信が師範なれば、汝等も水魚の交を為して、此上に猶軍学懈怠すべからずと言はれければ、昌俊感嘆して退けり。 ○十四年五月、板垣信形、萩原某の諫を用ひず、小笠原長時、木曽良高等と戦て大に敗れ、騎士二十余人、歩卒百五十余人を亡ふ。軍中相語て曰く、板垣諫めを用ひず、終に以て敗を取れり、罪譴必ず至らんと。信形之を大に悔み、営を閉ぢ罪を待つ、晴信、信形を召し、敵の譎謀に陥り、大敗を取らざるは、卿、老兵の力なり、以て意に介すること勿れと言て、将たらしむること故の如し。
書き下し
○十二年三月、板垣信形、山本晴幸を薦む。晴信則ち晴幸を招き、二百貫の地を興へり。原昌俊然るべからざる旨を諫む。晴信莞爾として、汝不審すること尤なり、我幼少より一度武家の棟梁と成て、天下を平治せんと欲し、小山田備中守と申合はせ、十四歳の時、竊に三河牛窪に往き、山本と主從の契約を爲し、夫より武者修行と號して、諸國を廻歴させ、國々の風俗を聞かせ、要害は繪圖にさせし故、恰も其地にして、其所を見るに等し、我諸國の風俗地利を能く知ること、是れ晴幸が功にあらずや。偖父信虎廢去の後は、彼れ目付として、駿河に差置く、晴幸程の者實に今川家を望まば、九ヶ年の間、如何で茫然として駿河に滯留せんや、今に於ては、我勇名隣國に響き、今川家の如き恐る〻に足らず、信形が薦めを幸にし、今呼寄するものなり。當代にして、弓箭の智識ならんぞ、向後晴信が師範なれば、汝等も水魚の交を爲して、此上に猶軍學懈怠すべからずと言はれければ、昌俊感歎して退けり。 ○十四年五月、板垣信形、萩原某の諫を用ひず、小笠原長時、木曾良高等と戰て大に敗れ、騎士二十餘人、歩卒百五十餘人を亡ふ。軍中相語て曰く、板垣諫めを用ひず、終に以て敗を取れり、罪譴必ず至らんと。信形之を大に悔み、營を閉ぢ罪を待つ、晴信、信形を召し、敵の譎謀に陷り、大敗を取らざるは、卿、老兵の力なり、以て意に介すること勿れと言て、將たらしむること故の如し。
現代語訳
十二年三月、板垣信形が山本晴幸を推薦しました。晴信はすぐに晴幸を招き、二百貫の地を与えました。原昌俊はよろしくないと諫めました。晴信はにこやかに、お前が不審に思うのはもっともである、私は幼少の頃から、一度は武家の棟梁となって天下を平らかに治めたいと願い、小山田備中守と申し合わせて、十四歳の時、ひそかに三河の牛窪に行き、山本と主従の契約をして、それから武者修行と称して諸国を巡り歩かせ、国々の風俗を聞かせ、要害は絵図にさせたので、まるでその地にいてその所を見るのと同じである。私が諸国の風俗や地の利をよく知っていることは、晴幸の功ではないだろうか。さて、父信虎が追放された後は、彼を目付として駿河に置いた。晴幸ほどの者が本当に今川家を望むのならば、九年の間、どうして茫然として駿河に滞在するだろうか。今となっては、私の勇名は隣国に響き、今川家など恐れるに足りない。信形の推薦を幸いに、今呼び寄せるのである。当代にして弓矢の知識人であるだろう。今後は晴信の師範であるから、お前たちも水魚の交わりをして、この上にもなお軍学を怠ってはならない、と言われたので、昌俊は感嘆して退きました。 十四年五月、板垣信形は、萩原某の諫めを用いず、小笠原長時、木曾義昌らと戦って大敗し、騎士二十余人、歩卒百五十余人を失いました。軍中の者は相語って、板垣は諫めを用いず、ついに敗北を取った、罪の咎めが必ず至るだろう、と言いました。信形はこれを大いに悔い、陣営を閉じて罪を待ちました。晴信は信形を召して、敵の謀りごとに陥りながら、大敗に至らなかったのは、卿の老練な兵の力である、これを気にしてはならない、と言って、将とすることを元のとおりにしました。
解説

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