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名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 力士の勝負と約束

○晴信、輝虎と十一年の間、合戰止む時なし。之に依り、永祿七年八月、兩家より力士一人づつ出し、其勝負に依り、河中島を領すべしと約し、武田方より、安馬彦六と云ふ者を出す。上杉方より、長谷川興五左衞門と云ふ者を出せり。二士兩陣の間にて、組打せしが、安馬、長谷川が爲めに打れたり。人々無念に思ひ、千餘騎の兵駒に腹帶を〆直し、既に出んと鬩ぐ所に、晴信曰く、鬼を欺く彦六が、あれ程の小男に打たれること、武運の盡きたる仕合なり、兼ねてより組打の勝負次第と約束せし上は、河中島のことは違變あるべからず、違約は士の恥る所なり、君子に二言なしとて、河中島四郡、今日より上杉家へ參らせ候と言て、歸陣せり。 ○深澤にて晴信、氏康と取合の時、我兵北條常陸介氏勝が黄八幡の指物を拾ひ來り、隱れなき常陸介も、此方の勢に恐れ、指物捨て逃たりと言て、山縣昌景を始め之を笑ふ。晴信曰く、左樣にてはなし、定て指替の指物を、下人の落し置きたるにてあるべし、其吟味もなくて、一向にひけとは言難し、常陸介は隱れなき弓執なり、之にあやかり、譽を取り候へと言て、其指物を眞田源次郎信尹に賜はる。是は敵に怒りを含ませては、無理なる働をするものなり、氏勝も一方の大將なれば、重ねて六ケ敷とのことなり、北條家にて是をひけと、何れも嘲る所に、晴信の批判を聞て、何れも申止まりけり。右のこと氏勝聞て、喜びの涙を流せしとぞ。

新字:○晴信、輝虎と十一年の間、合戦止む時なし。之に依り、永禄七年八月、両家より力士一人づつ出し、其勝負に依り、河中島を領すべしと約し、武田方より、安馬彦六と云ふ者を出す。上杉方より、長谷川興五左衛門と云ふ者を出せり。二士両陣の間にて、組打せしが、安馬、長谷川が為めに打れたり。人々無念に思ひ、千余騎の兵駒に腹帯を〆直し、既に出んと鬩ぐ所に、晴信曰く、鬼を欺く彦六が、あれ程の小男に打たれること、武運の尽きたる仕合なり、兼ねてより組打の勝負次第と約束せし上は、河中島のことは違変あるべからず、違約は士の恥る所なり、君子に二言なしとて、河中島四郡、今日より上杉家へ参らせ候と言て、帰陣せり。 ○深沢にて晴信、氏康と取合の時、我兵北条常陸介氏勝が黄八幡の指物を拾ひ来り、隠れなき常陸介も、此方の勢に恐れ、指物捨て逃たりと言て、山県昌景を始め之を笑ふ。晴信曰く、左様にてはなし、定て指替の指物を、下人の落し置きたるにてあるべし、其吟味もなくて、一向にひけとは言難し、常陸介は隠れなき弓執なり、之にあやかり、誉を取り候へと言て、其指物を真田源次郎信尹に賜はる。是は敵に怒りを含ませては、無理なる働をするものなり、氏勝も一方の大将なれば、重ねて六ケ敷とのことなり、北条家にて是をひけと、何れも嘲る所に、晴信の批判を聞て、何れも申止まりけり。右のこと氏勝聞て、喜びの涙を流せしとぞ。

書き下し

○晴信、輝虎と十一年の間、合戰止む時なし。之に依り、永祿七年八月、兩家より力士一人づつ出し、其勝負に依り、河中島を領すべしと約し、武田方より、安馬彦六と云ふ者を出す。上杉方より、長谷川興五左衞門と云ふ者を出せり。二士兩陣の間にて、組打せしが、安馬、長谷川が爲めに打れたり。人々無念に思ひ、千餘騎の兵駒に腹帶を〆直し、既に出んと鬩ぐ所に、晴信曰く、鬼を欺く彦六が、あれ程の小男に打たれること、武運の盡きたる仕合なり、兼ねてより組打の勝負次第と約束せし上は、河中島のことは違變あるべからず、違約は士の恥る所なり、君子に二言なしとて、河中島四郡、今日より上杉家へ參らせ候と言て、歸陣せり。 ○深澤にて晴信、氏康と取合の時、我兵北條常陸介氏勝が黄八幡の指物を拾ひ來り、隱れなき常陸介も、此方の勢に恐れ、指物捨て逃たりと言て、山縣昌景を始め之を笑ふ。晴信曰く、左樣にてはなし、定て指替の指物を、下人の落し置きたるにてあるべし、其吟味もなくて、一向にひけとは言難し、常陸介は隱れなき弓執なり、之にあやかり、譽を取り候へと言て、其指物を眞田源次郎信尹に賜はる。是は敵に怒りを含ませては、無理なる働をするものなり、氏勝も一方の大將なれば、重ねて六ケ敷とのことなり、北條家にて是をひけと、何れも嘲る所に、晴信の批判を聞て、何れも申止まりけり。右のこと氏勝聞て、喜びの涙を流せしとぞ。

現代語訳

晴信は上杉輝虎と十一年のあいだ、戦のやむ時がありませんでした。そこで永禄七年八月、両家から力士を一人ずつ出し、その勝負で河中島の領有を決めると約束しました。武田方からは安馬彦六という者を、上杉方からは長谷川興五左衛門という者を出しました。二人が両陣の間で組み打ちをし、安馬は長谷川に打ち負かされました。人々は無念に思い、千騎あまりの兵が馬の腹帯を締め直して今にも出ようと騒ぎましたが、晴信は言いました。「鬼を欺くほどの彦六が、あれほどの小男に打たれたのは、武運が尽きたということだ。もとより組み打ちの勝負次第と約束した以上、河中島のことは変えられない。約束を破るのは武士の恥とするところだ。君子に二言はない」。そう言って河中島四郡を今日から上杉家に渡すと告げ、陣を引き上げました。 深沢で晴信が氏康と戦ったとき、味方の兵が北条常陸介氏勝の黄八幡の指物を拾ってきて、「名高い常陸介も、わが軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた」と山県昌景をはじめ皆で笑いました。晴信は言いました。「そうではあるまい。きっと予備の指物を下人が落としたのだろう。その吟味もせずに、ただ逃げたとは言いがたい。常陸介は名高い弓取りだ。その名にあやかって手柄を立てよ」。そう言って指物を真田源次郎信尹に与えました。これは、敵に怒りを抱かせると無理な働きをするものだからで、氏勝も一方の大将なので、重ねて戦うのは厄介になる、ということでした。北条方でこれを逃げたと嘲っていた者たちも、晴信の見立てを聞いて何も言わなくなりました。この話を氏勝が聞き、喜びの涙を流したと伝わります。

解説

河中島をめぐる力士の勝負と、敵将の指物の扱いという二つの逸話です。岡谷繁実が諸書から集めた話で、史実としての確かさは話ごとに違い、永禄七年の勝負も含めて、そう語られてきた話と受け取るのが穏当です。前半は、取り決めた以上は不利でも守るという姿勢、後半は、敵に不要な恥をかかせず次の衝突を避けるという配慮を描きます。仕事に置き換えれば、合意した条件を損でも履行する信用と、競合や取引先の面目を潰さない振る舞いにあたります。勝ち方より後の関係を残す視点が、ここにあります。
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この章句が説くこと

晴信約束君子に二言なし河中島指物面目

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