名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 勝って驕らず
○同二十日、晴信、村上左衞門佐義淸と平澤に戰て之に勝つ。老臣等此勢に乘じて、敵地に働かるべしと勸めけれども用ひず、二十二日には、早々馬を入れ、翌日甲府に着し、堺目の仕置し、事至て穩便に、機嫌甚だ宜しからず、人々一月に兩度の勝なれば、定めて機嫌能かるべしと思ひしに、案に相違せり、後戸石の戰、晴信利を失ひければ、人々機嫌惡かるべしと思ひしに、存の外機嫌能く、歸陣の後、三日過ぎ、大藏大夫をして三日の間、能をさせ見物せり。勝て驕らず、負て阻せざること、率ね是類なり。
新字:○同二十日、晴信、村上左衛門佐義清と平沢に戦て之に勝つ。老臣等此勢に乗じて、敵地に働かるべしと勧めけれども用ひず、二十二日には、早々馬を入れ、翌日甲府に着し、堺目の仕置し、事至て穏便に、機嫌甚だ宜しからず、人々一月に両度の勝なれば、定めて機嫌能かるべしと思ひしに、案に相違せり、後戸石の戦、晴信利を失ひければ、人々機嫌悪かるべしと思ひしに、存の外機嫌能く、帰陣の後、三日過ぎ、大蔵大夫をして三日の間、能をさせ見物せり。勝て驕らず、負て阻せざること、率ね是類なり。
書き下し
○同二十日、晴信、村上左衞門佐義淸と平澤に戰て之に勝つ。老臣等此勢に乘じて、敵地に働かるべしと勸めけれども用ひず、二十二日には、早々馬を入れ、翌日甲府に着し、堺目の仕置し、事至て穩便に、機嫌甚だ宜しからず、人々一月に兩度の勝なれば、定めて機嫌能かるべしと思ひしに、案に相違せり、後戸石の戰、晴信利を失ひければ、人々機嫌惡かるべしと思ひしに、存の外機嫌能く、歸陣の後、三日過ぎ、大藏大夫をして三日の間、能をさせ見物せり。勝て驕らず、負て阻せざること、率ね是類なり。
現代語訳
同月二十日、晴信は村上左衛門佐義清と平沢で戦って勝ちました。老臣たちはこの勢いに乗って敵地に働き掛けるようにと勧めましたが、用いませんでした。二十二日には、早々に馬を入れ、翌日には甲府に着き、境目の処置をして、事はまことに穏便で、機嫌はたいへん悪くありました。人々は、一月に二度の勝ちだから、きっと機嫌がよいだろうと思っていましたが、案に相違しました。後に戸石の戦いで、晴信が不利を得た時、人々は機嫌が悪いだろうと思っていましたが、思いのほか機嫌がよく、帰陣の後三日を過ぎて、大蔵大夫に三日の間能をさせて見物しました。勝って驕らず、負けて沮喪しないことは、おおむねこの類でした。
解説

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