名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 六七分で止める
信勝未だ若年たる間、勝頼分別違ひ惡人を取立、某が仕置を改め、士大將共の諫を用ひずば、君臣の間隔り、信勝が代までもなく、勝頼が陣代の內に亡ぶべし。勝頼能く心を靜めて、聞べし、必々物に片寄らず、軍の事は言ふに及ばず、萬づ物の道理を言ふとも、六七分程にて能かるべし、八分までと思はゞ誤りあるべし、我家勝頼に讓らず、信勝を武田家の大將に定め、勝頼を陣代とすること、勝頼短慮になきと見屆るに於ては、勝頼に讓り度ものなれども、我見屆けざる所ある故、信勝に讓る。親たる者、我子の爲めに思はぬ者はなし、勝頼無分別なりとも、信勝が爲め惡かれとは思ふまじ、定置たる士大將共、非義を言掛け、互に志に耻て、武田の家の士大將をば、勝頼は朋輩會釋にすべし、箇樣の儀相違に於ては、武田の亡ぶべきこと眼前たるべしと。勝頼用ひず、遂に滅亡したり。 ○武田家從前は諸侍毎朝必ず出仕せり。晴信奉公人私用ありても、毎朝の出仕にては用事調ひ難かるべしとありて、朝隙入る者は晝か晩に出よ、晩に隙入る者は朝出よ、朝夕隙入る者は晝出よと、偖何れも帳に付べきとて夫より帳に付させたり。諸人彌々勵み奉公せしとなり。 ○晴信出陣の前に、必ず內習あり、是孫武が七計廟算の遺意なり。軍果てゝ後、諸將を召て、其日の勝負の理を問ふ。諸將各其旨を言ふ。晴信之を聞き、可なる時は之を稱し、不可なる時は之を戒む。故に一陣々々功者と成て、弓箭の味深く成りしとぞ。
新字:信勝未だ若年たる間、勝頼分別違ひ悪人を取立、某が仕置を改め、士大将共の諫を用ひずば、君臣の間隔り、信勝が代までもなく、勝頼が陣代の内に亡ぶべし。勝頼能く心を静めて、聞べし、必々物に片寄らず、軍の事は言ふに及ばず、万づ物の道理を言ふとも、六七分程にて能かるべし、八分までと思はゞ誤りあるべし、我家勝頼に譲らず、信勝を武田家の大将に定め、勝頼を陣代とすること、勝頼短慮になきと見届るに於ては、勝頼に譲り度ものなれども、我見届けざる所ある故、信勝に譲る。親たる者、我子の為めに思はぬ者はなし、勝頼無分別なりとも、信勝が為め悪かれとは思ふまじ、定置たる士大将共、非義を言掛け、互に志に耻て、武田の家の士大将をば、勝頼は朋輩会釈にすべし、箇様の儀相違に於ては、武田の亡ぶべきこと眼前たるべしと。勝頼用ひず、遂に滅亡したり。 ○武田家従前は諸侍毎朝必ず出仕せり。晴信奉公人私用ありても、毎朝の出仕にては用事調ひ難かるべしとありて、朝隙入る者は昼か晩に出よ、晩に隙入る者は朝出よ、朝夕隙入る者は昼出よと、偖何れも帳に付べきとて夫より帳に付させたり。諸人弥々励み奉公せしとなり。 ○晴信出陣の前に、必ず内習あり、是孫武が七計廟算の遺意なり。軍果てゝ後、諸将を召て、其日の勝負の理を問ふ。諸将各其旨を言ふ。晴信之を聞き、可なる時は之を称し、不可なる時は之を戒む。故に一陣々々功者と成て、弓箭の味深く成りしとぞ。
書き下し
信勝未だ若年たる間、勝頼分別違ひ惡人を取立、某が仕置を改め、士大將共の諫を用ひずば、君臣の間隔り、信勝が代までもなく、勝頼が陣代の內に亡ぶべし。勝頼能く心を靜めて、聞べし、必々物に片寄らず、軍の事は言ふに及ばず、萬づ物の道理を言ふとも、六七分程にて能かるべし、八分までと思はゞ誤りあるべし、我家勝頼に讓らず、信勝を武田家の大將に定め、勝頼を陣代とすること、勝頼短慮になきと見屆るに於ては、勝頼に讓り度ものなれども、我見屆けざる所ある故、信勝に讓る。親たる者、我子の爲めに思はぬ者はなし、勝頼無分別なりとも、信勝が爲め惡かれとは思ふまじ、定置たる士大將共、非義を言掛け、互に志に耻て、武田の家の士大將をば、勝頼は朋輩會釋にすべし、箇樣の儀相違に於ては、武田の亡ぶべきこと眼前たるべしと。勝頼用ひず、遂に滅亡したり。 ○武田家從前は諸侍毎朝必ず出仕せり。晴信奉公人私用ありても、毎朝の出仕にては用事調ひ難かるべしとありて、朝隙入る者は晝か晩に出よ、晩に隙入る者は朝出よ、朝夕隙入る者は晝出よと、偖何れも帳に付べきとて夫より帳に付させたり。諸人彌々勵み奉公せしとなり。 ○晴信出陣の前に、必ず內習あり、是孫武が七計廟算の遺意なり。軍果てゝ後、諸將を召て、其日の勝負の理を問ふ。諸將各其旨を言ふ。晴信之を聞き、可なる時は之を稱し、不可なる時は之を戒む。故に一陣々々功者と成て、弓箭の味深く成りしとぞ。
現代語訳
信勝がまだ若年の間、勝頼が分別を誤って悪人を取り立て、私の仕置きを改め、士大将たちの諫めを用いなければ、君臣の間が隔たり、信勝の代まで続かず、勝頼が陣代を務めるうちに亡びるだろう。勝頼はよく心を静めて聞きなさい。必ず物に偏らず、軍のことは言うに及ばず、万事の道理を言うにも、六、七分ほどでよい。八分までと思えば誤りがある。わが家を勝頼に譲らず、信勝を武田家の大将に定め、勝頼を陣代とするのは、勝頼が短慮でないと見届けられたなら勝頼に譲りたいのだが、私に見届けられないところがあるので、信勝に譲るのである。親たる者は、わが子のために思わない者はいない。勝頼が無分別であっても、信勝のために悪かれとは思わないだろう。定め置いた士大将たちに不義を言いかけ、互いの志に恥じて、武田家の士大将たちを、勝頼は朋輩の会釈で済ませるようなことがあれば、このような点で違えば、武田が亡びるのは目前である、と。勝頼は用いず、ついに滅亡しました。 武田家では従来、侍が毎朝必ず出仕していました。晴信は、「奉公人に私用があっても、毎朝の出仕では用事が整いにくいだろう」と言い、「朝に暇がかかる者は昼か晩に出よ。晩に暇がかかる者は朝に出よ。朝夕に暇がかかる者は昼に出よ。そして皆、帳に付けよ」と命じ、それから帳に付けさせました。人々はいよいよ励んで奉公したということです。 晴信は出陣の前に必ず内習をしました。これは孫武の七計廟算の遺意です。戦が終わった後に諸将を召して、その日の勝負の理由を問います。諸将はそれぞれの意見を言います。晴信はこれを聞き、よい時は褒め、悪い時は戒めました。そのため一陣一陣が功者となり、弓矢のこつが深くなったということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 悪事を語る浪人○比田武右衞門と云ふ者、武田家に奉公を望みて來れり、如何なる武功ありしやと問ふに、其身の惡きことのみ算立て、武者奉行に返答しけり。肝煎の者、腹立して、如何なることにさは申さるぞ、都て身代拵ぎ候者は覺ある譽を申べきに、惡きことのみ申たる上は、定めて御抱有間敷と言ければ、武右衞門聞て、眞の信玄公ならば、深く御思慮あるべしと言ふ。武者奉行有の儘に告ければ、果して之を怪み、其士しれものなるべし、能き働きは飾りても言出すべきに、惡きことのみ言て望むからは、其器量察すべきことなりとて、目見申付て召抱たり。果して目利に違はず、武田の鬼武右衞門と異名成されたり。 ○晴信、若者を取立るに、篤くと見定めざる中は、金銀衣類を事缺ぬ樣に興へ、其心を見定めて後、所領を賜ふ。惡きとて取返せば、侍に疵付、主人の目鏡違ふに似たりと言はれけり。 ○晴信、多田久藏に足輕大將を申付けし時、誡めて曰く、敵を切崩さざる以前に自身一人の働無用の事、自身の働必すべきとならば、陣前に足輕を差上ぐべし、左なくして、同心足輕を持ながら、一人の働をせば、其組下の者、組頭なくして、勝負を決すること能はず、味方勝利を失ふに至る、是大將の爲めに逆心同前なりと。 ○晴信、大敵と戰ふ時は、其前に先づ諸將士の心を試んと、大抵は合戰致す間敷と言て、必戰の氣を勵ます。諸將士是非共一戰と頻りに勸むるを、猶も押て其氣を養はしめ、然る後戰ふ。是故に士氣常より十倍せり。
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