名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 勝って糧を返す
○十一年三月九日、晴信、村上、諏訪、小笠原三家の兵を瀨澤に擊敗りて、大に勝利を得たり。初め晴信諸將に令して曰く、信濃の諸將、元より我年若くして、國の宿老を指揮することを能はずと思へり。去れば三家皆鬪心あることなし、我急に之を擊たば、彼必ず互に先を爭ひ、備を亂し騷け合はん、我隊伍を堅く一團の鋒矢の陣を以て、只一擧に擊敗るべし、人々兵粮は三日分にして、其餘は無用たるべしと觸れたり。諸將何れも晴信血氣故、荒涼の事を言はる〻と沙汰して、常の如く小荷駄を牽せたり。然るに敵に向て、鬨の聲を揚ると等しく、拔き連れて切て掛る。信濃の勢、案の如く先を論じて一決せず、其旗鼓未だ定まらざるに、我先鋒潮の涌くが如く押し掛て、息もつがず攻めたりしかば、忽ち大崩と成りけり。此時信濃勢、多分軍粮を棄て逃けたるにより、甲州へ小荷駄を分捕せしを、晴信聞て、悉く瀨澤口に積みて、少しも貪ることなからしむ。諸將曰く偶々一旦の勝利を得給ひながら、軍士を勞せらる〻に及ばず、分捕の兵粮を還さる〻ことこそ、心得難けれと、口々に申し〻を、晴信聞き、面々は壯年の昔より老功の今に至るまで、武邊の覺、世に聞えたる程なれば、晴信の心の及ばぬ所をば、異見をも頼みつるに、偖は頼母敷からぬ心哉、抑々兵を起し、雨に浴し風に櫛るも、敵の兵糧を分捕して、我士卒に興へんとの業と思ふにや、弓箭の道は、左樣に寒敷ものならず、第一百姓の耕作を妨ぐることなし、況や其儲を奪ふべけんや、又放火し、竹木を伐り取ること抔は思ひも寄らず、第二商賈の族は、國の有無を通じて、日用を助くるものなり、其等が店に並べて、客の求めを待つもの、假令は一錢以上に當るもの、狼藉に之を亂妨すべけんや。
新字:○十一年三月九日、晴信、村上、諏訪、小笠原三家の兵を瀨沢に撃敗りて、大に勝利を得たり。初め晴信諸将に令して曰く、信濃の諸将、元より我年若くして、国の宿老を指揮することを能はずと思へり。去れば三家皆闘心あることなし、我急に之を撃たば、彼必ず互に先を争ひ、備を乱し騷け合はん、我隊伍を堅く一団の鋒矢の陣を以て、只一挙に撃敗るべし、人々兵粮は三日分にして、其余は無用たるべしと触れたり。諸将何れも晴信血気故、荒涼の事を言はる〻と沙汰して、常の如く小荷駄を牽せたり。然るに敵に向て、鬨の声を揚ると等しく、抜き連れて切て掛る。信濃の勢、案の如く先を論じて一決せず、其旗鼓未だ定まらざるに、我先鋒潮の涌くが如く押し掛て、息もつがず攻めたりしかば、忽ち大崩と成りけり。此時信濃勢、多分軍粮を棄て逃けたるにより、甲州へ小荷駄を分捕せしを、晴信聞て、悉く瀨沢口に積みて、少しも貪ることなからしむ。諸将曰く偶々一旦の勝利を得給ひながら、軍士を労せらる〻に及ばず、分捕の兵粮を還さる〻ことこそ、心得難けれと、口々に申し〻を、晴信聞き、面々は壮年の昔より老功の今に至るまで、武辺の覚、世に聞えたる程なれば、晴信の心の及ばぬ所をば、異見をも頼みつるに、偖は頼母敷からぬ心哉、抑々兵を起し、雨に浴し風に櫛るも、敵の兵糧を分捕して、我士卒に興へんとの業と思ふにや、弓箭の道は、左様に寒敷ものならず、第一百姓の耕作を妨ぐることなし、況や其儲を奪ふべけんや、又放火し、竹木を伐り取ること抔は思ひも寄らず、第二商賈の族は、国の有無を通じて、日用を助くるものなり、其等が店に並べて、客の求めを待つもの、仮令は一銭以上に当るもの、狼藉に之を乱妨すべけんや。
書き下し
○十一年三月九日、晴信、村上、諏訪、小笠原三家の兵を瀨澤に擊敗りて、大に勝利を得たり。初め晴信諸將に令して曰く、信濃の諸將、元より我年若くして、國の宿老を指揮することを能はずと思へり。去れば三家皆鬪心あることなし、我急に之を擊たば、彼必ず互に先を爭ひ、備を亂し騷け合はん、我隊伍を堅く一團の鋒矢の陣を以て、只一擧に擊敗るべし、人々兵粮は三日分にして、其餘は無用たるべしと觸れたり。諸將何れも晴信血氣故、荒涼の事を言はる〻と沙汰して、常の如く小荷駄を牽せたり。然るに敵に向て、鬨の聲を揚ると等しく、拔き連れて切て掛る。信濃の勢、案の如く先を論じて一決せず、其旗鼓未だ定まらざるに、我先鋒潮の涌くが如く押し掛て、息もつがず攻めたりしかば、忽ち大崩と成りけり。此時信濃勢、多分軍粮を棄て逃けたるにより、甲州へ小荷駄を分捕せしを、晴信聞て、悉く瀨澤口に積みて、少しも貪ることなからしむ。諸將曰く偶々一旦の勝利を得給ひながら、軍士を勞せらる〻に及ばず、分捕の兵粮を還さる〻ことこそ、心得難けれと、口々に申し〻を、晴信聞き、面々は壯年の昔より老功の今に至るまで、武邊の覺、世に聞えたる程なれば、晴信の心の及ばぬ所をば、異見をも頼みつるに、偖は頼母敷からぬ心哉、抑々兵を起し、雨に浴し風に櫛るも、敵の兵糧を分捕して、我士卒に興へんとの業と思ふにや、弓箭の道は、左樣に寒敷ものならず、第一百姓の耕作を妨ぐることなし、況や其儲を奪ふべけんや、又放火し、竹木を伐り取ること抔は思ひも寄らず、第二商賈の族は、國の有無を通じて、日用を助くるものなり、其等が店に並べて、客の求めを待つもの、假令は一錢以上に當るもの、狼藉に之を亂妨すべけんや。
現代語訳
十一年三月九日、晴信は、村上、諏訪、小笠原の三家の兵を瀬沢で打ち破り、大いに勝利を得ました。はじめ晴信は諸将に命じて言いました。信濃の諸将は、もとより私が年若く、国の宿老を指揮することはできないと思っている。そのため三家はみな闘志がない。私が急にこれを撃てば、彼らは必ず互いに先を争い、備えを乱して騒ぎ合うだろう。私は隊伍を堅く一団の鋒矢の陣で、ただ一挙に打ち破ろう。各自の兵糧は三日分にして、その余は無用であろう、と触れました。諸将はいずれも、晴信は血気にはやって荒っぽいことを言われると噂し、常のように小荷駄を引かせました。ところが敵に向かって鬨の声を揚げるとたちまち、抜き連れて斬り掛かりました。信濃の勢は案の定、先を論じて一決せず、その旗や鼓が定まらないうちに、我が先鋒は潮が湧くように押し掛けて、息もつかずに攻めたので、たちまち大崩れとなりました。この時、信濃勢は多くが軍糧を棄てて逃げたので、甲州の側は小荷駄を分捕りましたが、晴信はこれを聞いて、ことごとく瀬沢口に積ませ、少しも貪ることがないようにさせました。諸将は、たまたま一度の勝利を得られながら、軍士を労われることもなく、分捕りの兵糧を返されることは、納得しがたい、と口々に申しました。晴信はこれを聞き、各々は壮年の昔から老功の今に至るまで、武辺の覚えが世に聞こえたほどだから、晴信の心の及ばないところは、意見を頼みにしていたのに、それでは頼りにならぬ心だな。そもそも兵を起こし、雨に浴し風にくしけずるのも、敵の兵糧を分捕って我が士卒に与えようとの業と思うのか。弓矢の道はそのようにさもしいものではない。第一に、百姓の耕作を妨げることがない。まして、その蓄えを奪うべきであろうか。また、放火して竹木を伐り取ることなどは思いも寄らない。第二に、商人の類は、国の有無を通じて日用を助けるものである。それらが店に並べて客の求めを待つものを、たとえ一銭以上に当たるものでも、乱暴に奪い取るべきであろうか。
解説

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