名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 蛤で数を測る
○今川義元の妻は、晴信の姉なり。一日姉の方より、母の方へ貝掩ひの爲めにとて、蛤を夥しく贈れり。母、晴信方へ人を以て、此蛤の大小を小姓共に申付け、選り分け賜はれとのことなり。卽ち大をば選りて參らせ、小き蛤疊二疊計りに大方塞がり、高さ一尺もありつらん、是を小姓共に筭へさせければ、三千七百餘なり。折節諸將士參候せしかば、此蛤は何程あらんと問ふ。何れも有功の人々なりしが、二萬、或は一萬五千抔と申す。晴信聞て、人數は多くなきものならん、五千の人數を持たば、何を致さんも心の儘なりと言ひければ、聞く人舌を振はぬはなし。晴信時に年十三。 ○信虎、次男、次郎信繁を愛し、晴信を廢せんとするの意あり。家臣之を察し、皆信繁を敬して、晴信を輕侮す。晴信之を察し、常に虚氣たる體にて、馬に乘りては落ちて土を付け、其儘信虎の前に出で、書を書きては惡く書き、水を汎ぎては深淵に入て人に助けられ、居物を斬りては色を失ひて斬り損じ、弟の信繁に何事も皆劣りければ、信虎は申までもなく、家臣の者共皆弟に劣りたる虚氣者なりと言て笑へり。特に荻原常陸介昌勝之を見て、此人大丈夫の器ありと言て、甘利備前守虎泰、板垣駿河守信形と密に晴信を補翼せり。
新字:○今川義元の妻は、晴信の姉なり。一日姉の方より、母の方へ貝掩ひの為めにとて、蛤を夥しく贈れり。母、晴信方へ人を以て、此蛤の大小を小姓共に申付け、選り分け賜はれとのことなり。即ち大をば選りて参らせ、小き蛤畳二畳計りに大方塞がり、高さ一尺もありつらん、是を小姓共に筭へさせければ、三千七百余なり。折節諸将士参候せしかば、此蛤は何程あらんと問ふ。何れも有功の人々なりしが、二万、或は一万五千抔と申す。晴信聞て、人数は多くなきものならん、五千の人数を持たば、何を致さんも心の儘なりと言ひければ、聞く人舌を振はぬはなし。晴信時に年十三。 ○信虎、次男、次郎信繁を愛し、晴信を廃せんとするの意あり。家臣之を察し、皆信繁を敬して、晴信を軽侮す。晴信之を察し、常に虚気たる体にて、馬に乗りては落ちて土を付け、其儘信虎の前に出で、書を書きては悪く書き、水を汎ぎては深淵に入て人に助けられ、居物を斬りては色を失ひて斬り損じ、弟の信繁に何事も皆劣りければ、信虎は申までもなく、家臣の者共皆弟に劣りたる虚気者なりと言て笑へり。特に荻原常陸介昌勝之を見て、此人大丈夫の器ありと言て、甘利備前守虎泰、板垣駿河守信形と密に晴信を補翼せり。
書き下し
○今川義元の妻は、晴信の姉なり。一日姉の方より、母の方へ貝掩ひの爲めにとて、蛤を夥しく贈れり。母、晴信方へ人を以て、此蛤の大小を小姓共に申付け、選り分け賜はれとのことなり。卽ち大をば選りて參らせ、小き蛤疊二疊計りに大方塞がり、高さ一尺もありつらん、是を小姓共に筭へさせければ、三千七百餘なり。折節諸將士參候せしかば、此蛤は何程あらんと問ふ。何れも有功の人々なりしが、二萬、或は一萬五千抔と申す。晴信聞て、人數は多くなきものならん、五千の人數を持たば、何を致さんも心の儘なりと言ひければ、聞く人舌を振はぬはなし。晴信時に年十三。 ○信虎、次男、次郎信繁を愛し、晴信を廢せんとするの意あり。家臣之を察し、皆信繁を敬して、晴信を輕侮す。晴信之を察し、常に虚氣たる體にて、馬に乘りては落ちて土を付け、其儘信虎の前に出で、書を書きては惡く書き、水を汎ぎては深淵に入て人に助けられ、居物を斬りては色を失ひて斬り損じ、弟の信繁に何事も皆劣りければ、信虎は申までもなく、家臣の者共皆弟に劣りたる虚氣者なりと言て笑へり。特に荻原常陸介昌勝之を見て、此人大丈夫の器ありと言て、甘利備前守虎泰、板垣駿河守信形と密に晴信を補翼せり。
現代語訳
今川義元の妻は晴信の姉です。ある日、姉の方から母の方へ、貝合わせのためにと、蛤をおびただしく贈りました。母は晴信のもとに人をやり、この蛤の大小を小姓たちに言いつけて選り分けてほしいとのことでした。そこで大きなものを選んで差し上げ、小さい蛤は畳二畳ほどがほぼ塞がるほどで、高さは一尺もあったでしょうか、これを小姓たちに数えさせたところ、三千七百余りでした。ちょうど諸将の士が参上していたので、この蛤はどれほどあるだろうかと問いました。いずれも功のある人々でしたが、二万、あるいは一万五千などと申しました。晴信は聞いて、人数は多くないものだろう、五千の人数を持てば、何をするにも思いのままである、と言ったので、聞く人は舌を巻かない者はありませんでした。晴信は時に十三歳でした。 信虎は次男の次郎信繁を愛して、晴信を廃しようとする意がありました。家臣はこれを察して、皆信繁を敬って、晴信を軽んじ侮りました。晴信はこれを察して、常に愚かなふりをして、馬に乗っては落ちて土を付けたまま信虎の前に出、書を書いては下手に書き、水を泳いでは深い淵に入って人に助けられ、居ものを斬っては色を失って斬り損じ、弟の信繁に何事も皆劣っていたので、信虎はもちろん、家臣の者たちも皆、弟に劣った愚か者だと言って笑いました。特に荻原常陸介昌勝がこれを見て、この人には大丈夫の器があると言って、甘利備前守虎泰、板垣駿河守信形とひそかに晴信を補佐しました。
解説

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『甲陽軍鑑』品第六此姉子の御方より母公へ貝おほひのためにとて蛤を送り参らせらるゝ、信玄公を勝千代殿と申時なれば、御母公より上薦をもつて此蛤の大小を扈従どもに申付け、ゑりわけて給はれとの御事也即ち大をばゑりてまいらせられ、小き蛤たゝみに二帖敷ばかりに大方ふさがり高さ一尺も有つらん、是を扈従どもにかぞへさせ給へば三千七百あまりなり、其時諸士参候せしに此蛤は何程あらんと問はせ給ふ時、各有功の人々二万或は一万五千などゝ申す勝千代殿仰らるゝは、人数は多くなきものならん、五千の人数を持つ人は何をいたさんもまゝなりと、仰られしを聞程ごとの人したをふるはぬものはなし、是れ信玄公十三の御年なり、
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 師となる人を重んじる○十二年三月、板垣信形、山本晴幸を薦む。晴信則ち晴幸を招き、二百貫の地を興へり。原昌俊然るべからざる旨を諫む。晴信莞爾として、汝不審すること尤なり、我幼少より一度武家の棟梁と成て、天下を平治せんと欲し、小山田備中守と申合はせ、十四歳の時、竊に三河牛窪に往き、山本と主從の契約を爲し、夫より武者修行と號して、諸國を廻歴させ、國々の風俗を聞かせ、要害は繪圖にさせし故、恰も其地にして、其所を見るに等し、我諸國の風俗地利を能く知ること、是れ晴幸が功にあらずや。偖父信虎廢去の後は、彼れ目付として、駿河に差置く、晴幸程の者實に今川家を望まば、九ヶ年の間、如何で茫然として駿河に滯留せんや、今に於ては、我勇名隣國に響き、今川家の如き恐る〻に足らず、信形が薦めを幸にし、今呼寄するものなり。當代にして、弓箭の智識ならんぞ、向後晴信が師範なれば、汝等も水魚の交を爲して、此上に猶軍學懈怠すべからずと言はれければ、昌俊感歎して退けり。 ○十四年五月、板垣信形、萩原某の諫を用ひず、小笠原長時、木曾良高等と戰て大に敗れ、騎士二十餘人、歩卒百五十餘人を亡ふ。軍中相語て曰く、板垣諫めを用ひず、終に以て敗を取れり、罪譴必ず至らんと。信形之を大に悔み、營を閉ぢ罪を待つ、晴信、信形を召し、敵の譎謀に陷り、大敗を取らざるは、卿、老兵の力なり、以て意に介すること勿れと言て、將たらしむること故の如し。
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名将言行録・『名将言行録』武田信繁 兄に家を渡す弟陸奧守信虎の二子、左馬助と稱す。天文廿三年八月十八日戰死、年三十七。 ○信虎、信繁に家を讓らんとし、家に傳はりたる寶器を一品づゝ信繁に付與す。信繁之を受取りて、潜に兄の晴信の方に送れり。 ○信虎、信繁を愛し、嫡子晴信を廢するの心あり。之に依り信虎と、晴信との間不和なりしに、群臣何れも晴信の武略に長じたるを見て、信虎を捨てゝ晴信に服從す。晴信群臣と謀て、信虎を駿河に誘引出して、之を拒みし程に、信虎、甲斐に歸ること能はず。信虎は今川氏眞が外祖父たるにより、駿河の寄公と爲りて、年を歴けれども、晴信終に父を迎へて國に入るゝことなし。信虎、後に京師に落魄して、一生をなん終りける。信虎晴信を廢し、信繁を立んとするをば、兼ねて晴信も知りたることとなるに、信繁其嫌忌の間に處しながら、晴信に仕へて兄弟の間、少しも違言あることなし。朝夕國に慘々として、人臣の節を失はず。其忠信誠實人を感孚するの遠き、友愛の心なき晴信と雖も、常に信任して、疑忌の心なく、始終一の如くにぞありける。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 詩歌と臆病者の使い道○晴信人となり豪武、善く戰ひ、十六歳より、弓箭を執て、三十八年、終に一度も敵に押付を見せず、又持分の城郡を一つも敵に取られず。又頗る才思あり、好みて書を讀み和歌及び、詩を善くせり。今其一二を擧ぐ。「題二便面鴈圖一。」水綠山青欲レ雨初。數行鴻雁度二長虛一。天涯高處要二通信一。定可二蘇卿胡地書一。又「惜二落花一。」檐外紅殘三四峰。蜂狂蝶醉景猶濃、遊人亦借二漁翁手一。網二住飛花一至二晩鐘一。嘗て一蓮寺に遊び松間花に題して曰く、「立並ぶ、甲斐こそなけれ、櫻花松に千歳の色はならはで。」 ○武田氏亡びて後、家康、北條と迫合しことあり。時に日向が相備七人まで、一度も手に逢はず、家康臆病者なり、改易すべしと言はる。今井九兵衞臆病仕ること、尤に候、信玄の時、彼者共一度も手に逢申さずと言ふ。家康夫程の者ならば、尚以て役に立間敷と言はる。九兵衞然れども信玄は殊の外馳走仕候、仔細は臆病なる者は、方方への使に遣られ候、能き者は使に遣られし後にて、合戰之あり候へば、使に遣られ候を不足に存候、臆病なる者は、夫を喜び參り申候、使に行く先にて、關所、或は舟渡し、總別出入之ある時は、假令天窓を打るゝ程のひけなりとも堪忍仕り、使の埒をば一段首尾能く仕候とのことにて、馳走せられ候と申す。家康手を拍て、尤なりと言て、其役に召使ひしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 噂を先に流す○今川氏眞掛川を遁れ出て、小田原に至り、北條を頼み居たり。晴信小田原に氏眞を置けば、以來六ケ敷と思ひ、之を追はんとして、先づ其手立に甲斐より、小田原へ用事ありて使として、最初に原隼人佐昌勝を遣はし、二度目に內藤修理亮昌豐を遣はすべくと定め、晴信先づ市人を以て、今度甲州より、原隼人使に來り氏眞に腹を切らせんとの內談あり、其次に內藤修理來て、腹を切らせ申との取沙汰の由言はせける。氏眞之を聞て大に怖れ居たり。暫くして市人の申に違はず、隼人來る。此使を心元なく思ひける所に、重ねて修理來ると申に付、扨は疑ひなしとて、小田原を船にて逃去れり。 ○味方ケ原の役、先手より軍は御勝利たるべきの聞、早や一戰を始め申べきやと申越せり。晴信聞て、承引せず。其後小山田彌三郎來て、御合戰は御勝利たるべく、其仔細は某が手の者を遣はして、備の後を見せ申すに、只一かはに敵の人數を立てる趣、慥に見定めて參りたり、御一戰を急がれ然るべしと言ふ。晴信聞て、小山田が申分踏所ありて至極せり、去らば今日の軍始めを小山田に褒美に申付るとありて、軍始めありて、終に勝軍になれり。萬事愼なる踏み所なければ、承引はなかりしとぞ。