名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 殿を願い出る
○天文五年十一月、信虎兵八千に將として信濃に出で、海口城を攻む。城主平賀成頼入道源心善く戰ふ。城堅くして拔けず。其中大雪降りければ益々落つべき樣子はなかりけり。諸將相議し、城兵三千に及べば、我攻には成り難し、殊に今日は早や極月二十六日なれば、年も迫り候、一と先づ御歸陣ありて、來春のことに成さるべし、敵も大雪と申し、節季と申し、後を慕ふこと努々有間敷と申しければ、信虎如何にもとありて、既に引揚ぐべきに究まりければ、晴信進み出て、去らば後殿を某に仰付られ候へと望む。信虎聞て大に笑ひ、武田の名折を申もの哉、敵の慕間敷と功者共申候へば、假令我等後殿を申付候とも、次郎に仰付られ候へ抔と申てこそ、總領とも言ふべけれ、次郎ならば中々箇樣のことは望み申間敷とて、叱られけれど、晴信頻りに望みし故、其儀ならば後に引き候へとて、信虎二十七日曉に打立ち、馬を入る。晴信は東道三十里後に残り、漸く三百計りの人數を以て後殿す。其夜一人に三人分の食を與へ、物具を解かしめず、馬に物を能く飼て、鞍を卸させず、寒天なれば、明日打立つ時分は上戸下戸に寄らず、酒を過ぐし、七つ時分にならば打立つべき分別すべしと、自身に觸れ警めければ、兵皆竊に笑て、信虎公の御誘成さる〻も御尤なり、此風雪に何にとして、敵後を慕ひ申べきと言ふ。偖七ツ時分に打立て、甲府の方へは行かず、還り海口に向ひ、三百騎と共に雪を冒して馳せ、二十八日昧爽、城に至る。源心巳に其兵を散遣し、僅に五六十人にて留守せり。晴信兵を分ち三隊と爲し、自ら一隊を以て城に入る。二隊幟を城外に揚けて、之に應ず。城兵其衆寡を測ること能はず、戰はずして潰へり。源心を斬り、其首を以て歸り、信虎に獻ず。一軍大に驚く。信虎賞せずして曰く、其城に其儘居て、使を越し候はで捨來るは臆病なりと。諸將晴信に心服すれども、敢て其功を稱せず。晴信益々癡騃の狀を爲せり。時に年十六。
新字:○天文五年十一月、信虎兵八千に将として信濃に出で、海口城を攻む。城主平賀成頼入道源心善く戦ふ。城堅くして抜けず。其中大雪降りければ益々落つべき様子はなかりけり。諸将相議し、城兵三千に及べば、我攻には成り難し、殊に今日は早や極月二十六日なれば、年も迫り候、一と先づ御帰陣ありて、来春のことに成さるべし、敵も大雪と申し、節季と申し、後を慕ふこと努々有間敷と申しければ、信虎如何にもとありて、既に引揚ぐべきに究まりければ、晴信進み出て、去らば後殿を某に仰付られ候へと望む。信虎聞て大に笑ひ、武田の名折を申もの哉、敵の慕間敷と功者共申候へば、仮令我等後殿を申付候とも、次郎に仰付られ候へ抔と申てこそ、総領とも言ふべけれ、次郎ならば中々箇様のことは望み申間敷とて、叱られけれど、晴信頻りに望みし故、其儀ならば後に引き候へとて、信虎二十七日暁に打立ち、馬を入る。晴信は東道三十里後に残り、漸く三百計りの人数を以て後殿す。其夜一人に三人分の食を与へ、物具を解かしめず、馬に物を能く飼て、鞍を卸させず、寒天なれば、明日打立つ時分は上戸下戸に寄らず、酒を過ぐし、七つ時分にならば打立つべき分別すべしと、自身に触れ警めければ、兵皆窃に笑て、信虎公の御誘成さる〻も御尤なり、此風雪に何にとして、敵後を慕ひ申べきと言ふ。偖七ツ時分に打立て、甲府の方へは行かず、還り海口に向ひ、三百騎と共に雪を冒して馳せ、二十八日昧爽、城に至る。源心巳に其兵を散遣し、僅に五六十人にて留守せり。晴信兵を分ち三隊と為し、自ら一隊を以て城に入る。二隊幟を城外に揚けて、之に応ず。城兵其衆寡を測ること能はず、戦はずして潰へり。源心を斬り、其首を以て帰り、信虎に献ず。一軍大に驚く。信虎賞せずして曰く、其城に其儘居て、使を越し候はで捨来るは臆病なりと。諸将晴信に心服すれども、敢て其功を称せず。晴信益々痴騃の状を為せり。時に年十六。
書き下し
○天文五年十一月、信虎兵八千に將として信濃に出で、海口城を攻む。城主平賀成頼入道源心善く戰ふ。城堅くして拔けず。其中大雪降りければ益々落つべき樣子はなかりけり。諸將相議し、城兵三千に及べば、我攻には成り難し、殊に今日は早や極月二十六日なれば、年も迫り候、一と先づ御歸陣ありて、來春のことに成さるべし、敵も大雪と申し、節季と申し、後を慕ふこと努々有間敷と申しければ、信虎如何にもとありて、既に引揚ぐべきに究まりければ、晴信進み出て、去らば後殿を某に仰付られ候へと望む。信虎聞て大に笑ひ、武田の名折を申もの哉、敵の慕間敷と功者共申候へば、假令我等後殿を申付候とも、次郎に仰付られ候へ抔と申てこそ、總領とも言ふべけれ、次郎ならば中々箇樣のことは望み申間敷とて、叱られけれど、晴信頻りに望みし故、其儀ならば後に引き候へとて、信虎二十七日曉に打立ち、馬を入る。晴信は東道三十里後に残り、漸く三百計りの人數を以て後殿す。其夜一人に三人分の食を與へ、物具を解かしめず、馬に物を能く飼て、鞍を卸させず、寒天なれば、明日打立つ時分は上戸下戸に寄らず、酒を過ぐし、七つ時分にならば打立つべき分別すべしと、自身に觸れ警めければ、兵皆竊に笑て、信虎公の御誘成さる〻も御尤なり、此風雪に何にとして、敵後を慕ひ申べきと言ふ。偖七ツ時分に打立て、甲府の方へは行かず、還り海口に向ひ、三百騎と共に雪を冒して馳せ、二十八日昧爽、城に至る。源心巳に其兵を散遣し、僅に五六十人にて留守せり。晴信兵を分ち三隊と爲し、自ら一隊を以て城に入る。二隊幟を城外に揚けて、之に應ず。城兵其衆寡を測ること能はず、戰はずして潰へり。源心を斬り、其首を以て歸り、信虎に獻ず。一軍大に驚く。信虎賞せずして曰く、其城に其儘居て、使を越し候はで捨來るは臆病なりと。諸將晴信に心服すれども、敢て其功を稱せず。晴信益々癡騃の狀を爲せり。時に年十六。
現代語訳
天文五年十一月、信虎は兵八千を率いて信濃に出て、海口城を攻めました。城主の平賀成頼入道源心はよく戦いました。城は堅くて落ちません。そのうちに大雪が降り、ますます落ちる様子はありませんでした。諸将は相談し、城兵が三千に及べば我らの攻撃は成りがたい、ことに今日はもう十二月二十六日で、年も迫っているので、いったんご帰陣になって、来春のこととなさるのがよろしい、敵も大雪といい年の暮れといい、後を追ってくることは決してあるまいと申し上げたところ、信虎はなるほどと言い、引き揚げることに決まりました。晴信が進み出て、それならば後殿を私に仰せ付けください、と望みました。信虎は聞いて大いに笑い、武田の名折れを言うものだ、敵が追ってくるまいと功者たちが言っているのだから、たとえ私が後殿を言い付けるにしても、次郎に仰せ付けくださいなどと言ってこそ総領というものだ、次郎ならばまずこのようなことは望み申すまい、と叱りましたが、晴信がしきりに望んだので、それならば後に引け、と言って、信虎は二十七日の暁に出立し、馬を入れました。晴信は東道三十里ほど後に残り、ようやく三百ばかりの人数で後殿をつとめました。その夜、一人に三人分の食を与え、武具を解かせず、馬によく餌を与えて鞍を卸させず、寒い天気だから明日出立する時分は酒飲みも下戸も関わらず酒を過ごし、七つ時分になったら出立する分別をせよと、自ら触れて戒めました。兵は皆ひそかに笑って、信虎公のお言いつけももっともです、この風雪にどうして敵が後を追ってまいりましょうと言いました。さて七つ時分に出立し、甲府の方へは行かず、引き返して海口に向かい、三百騎とともに雪を冒して馳せ、二十八日の夜明けに城に至りました。源心はすでにその兵を散じて遣わしており、わずか五、六十人で留守を守っていました。晴信は兵を分けて三隊とし、自ら一隊で城に入りました。二隊は幟を城外に揚げて、これに応じました。城兵はその多少を測ることができず、戦わずして崩れました。源心を斬り、その首を持って帰り、信虎に献上しました。全軍が大いに驚きました。信虎は賞せず、その城にそのまま居て、使いをよこさずに捨ててきたのは臆病だと言いました。諸将は晴信に心服していましたが、あえてその功を称えませんでした。晴信はますます愚かな様子を装いました。時に年十六でした。
解説

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