名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 日本の蓋
○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中國の蓋にて候に殘り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中國の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても餘りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安國寺、黑田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中國を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の殘りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の殘りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の餘澤を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下國の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後來のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。
新字:○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中国の蓋にて候に残り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中国の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても余りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安国寺、黒田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中国を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の残りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の残りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の余沢を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下国の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後来のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に党し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に対して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。
書き下し
○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中國の蓋にて候に殘り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中國の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても餘りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安國寺、黑田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中國を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の殘りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の殘りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の餘澤を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下國の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後來のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。
現代語訳
秀吉は隆景の死を聞いて大いに驚き、さてさて惜しいことだ、日本の賢人であったのに、才智で命が延びるものならば、隆景は百歳までも命を保つはずなのに、力の及ばないのは人の命である、と言われました。その時、前場半入という伽の坊主がいて、上意のとおり惜しい人でございます、良い中国の蓋でございましたのに、残念なことです、と申しました。秀吉はこれを聞いて、さてさてお前は目の小さい者だな、隆景を中国の蓋と見るのは暗い目だ、日本の蓋にしても余りある隆景であった、と言われました。 隆景が亡くなった後、安国寺が黒田孝高のもとに行って話をした時、孝高は言いました。隆景が亡くなって、日本に賢人が絶えた。この人が毛利家にあったのは、船に船頭がいるようなものである。平生よく中国を治められたので、隆景が亡くなっても今も当時と変わらないのは、ひとえに隆景の力の名残である。たとえば船を漕ぎ進めて急に止めても、前から櫓を押した勢いが残って五間十間はその船が先へ行くようなものである。しかし押した勢いが弱まった時、船は止まるものである。輝元も隆景の余沢で今までは見事に見えたが、この後の輝元の思案が大事である、と。 隆景は鍋島直茂と交わりが深くありました。直茂が帰国する時、隆景が病に臥していると聞いて、三原に立ち寄り見舞いました。隆景は今後のことを語りました。直茂は涙を流して去りました。隆景の死後、慶長五年、直茂の子の信濃守勝茂が石田三成に与し、家がほとんど滅びようとしました。これより前、伏見の騒動の時、秀忠の奥方を直茂に預けようという話があり、その時、直茂が身命の限り守護しますと申したことがあり、それによって直茂に対して、勝茂の罪が赦されました。これは前の年に隆景が授けたことだということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 鍋島直茂の評○鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、當時日本にて名將と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左樣に隆景と、我と似たる樣に申すぞ、田舎者にて上方の事を知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。其故は先年太閤御前にて諸大名列座の時、御意には其方共に數年苦勞致させ候に、知行を遣はし度思へども、如何にしても日本小國にて地が足らず、唐天竺を伐取り、其方抔に存分に知行を遣はすべくと思ふ、如何あるべきやと仰出されたり。其時は御亂心かと思ふ程にてありし。一人も、御挨拶申す者なし、其時隆景一人進み出で、成程御尤の儀然るべく存奉ると申上らる、其時我等心に隆景は世に分別者と聞きしが、偖は輕薄者と思ひたり、未だ見もせぬ朝鮮のことを思召立れ候へと申上られしこと、物笑しく聞居りしが、去らば祐筆を呼出し、一ッ書にて掟等を定めんとて、朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤是は問はり申すべく、彼は何々と遂一申上けられたり。如何なる事かと思ひ居たりしが、偖其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上けしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。實に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 天下を見通す世又泰平に屬すべき期漸く近きに在り、此時に當りて、自然天下の權を握り海內の亂を拂ふ人などかなかるべき、此年比秀吉の振舞を傳聞くに、其事恐らくは此人にやありぬべき、去れば此度、信長が死せしこと、秀吉の身に取ては深き禍には似たれども、天下此人に歸すべき時既に至りぬと、覺ゆるなり、多く秀吉の振舞を論ずるにも及ばず、今兩家好み既に成らんとする時に臨みて、只尋常の心ならんには、如何にもして信長が死を深く隱くし、盟を結びてこそ其事をも披露あるべきに、斯くまで、直に申送る條、甚だ以て不敵なり、然るに今初めの詞に引替て、秀吉と中違ひしたらんには、長く當家の仇を結び、我家終に彼が爲めに亡んこと遠きにあるべからず、只此儘に和睦し、前途後榮を此人と共に期し給ふには若くべからずと、又餘儀なく言しかば、福原越前守廣俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事變ずべからざる旨、輝元を始として、宗徒の人々皆起請文を送られけり。秀吉大に喜びて、此好み長く變ずることあらじとて、是も起請文書して送られけり。此上は逆臣を速に誅戮あるべしとて、明ば六日、秀吉、備中を立ちて都に赴く。輝元頃て秀吉に加勢して、叔父藤四郞元綱に、桂民部大輔附けて人質にぞ出しける。程なく明智亡び、天下終に秀吉に歸せしこと、隆景の計りしに少しも違はざりけり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 信長の死と毛利○天正十年織田信長、羽柴秀吉をして備中の國に攻入り、高松城を攻しむ。輝元、元春、隆景、數萬騎を牽ゐ後援す。信長の軍勢、又雲霞の如く攻め下ると聞えしかば、毛利の人々相議し、備中、備後、伯耆三ケ國を信長に避け渡し、和睦すべしとて、秀吉の許に使を立てゝ、長く兩家の好みを結ぶべき由を言送ること度々に及べり。斯る所に六月二日、信長、明智光秀が爲めに失はれし由、秀吉の陣に聞ゆ。秀吉少しも包まず。毛利の使に向ひ、織田殿既に逆臣の爲めに失はれ給ひぬ。斯ても猶輝元が、秀吉と好み結ばんこと、初より聞く所の如くにやあらん、今は又違ふことやあるべき、汝速に歸りて此由を語り、汝が主の思はん樣を急度承はりて來れ、其上にこそ返答に及ぶべけれとて歸さる。輝元諸將を集めて此事を詮議す。當家信長にこそ和睦せんと言けれ、秀吉が爲めにあらず、信長忽ち打たれしこと偏に當家の幸なり、一ト先本國に引返し、世の成り行き御覽候へかしと、皆一同に申けり。隆景之を聞き、隆景が存ずる所各々の議に同じからず、抑々本朝の兵革頻りに勤て爰に百餘年、天下の亂既に極まりぬ。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 分別の肝要は仁愛○隆景曰く、孝高の智は甚だ敏にして、是非を決するに造作もなきこと利刀にて竹を二ッに割るが如し、天下に及ぶ者なし。然るに只才覺武略の譽はありて、思慮の譽はなし。我孝高の才智には遙に劣れり、孝高の思慮せずして即時に決斷することを、我は返す〱思案して漸く孝高の即時の智に及ぶ。然れども世上の人我を却て思案ありと言ふは、才鈍きにより即時に決斷することならずして、思案を好む故なるべしと。 ○黑田長政、隆景に向ひ、分別は如何したるが能く候やと問ふ。隆景、別の仔細なし。只久く思案して遲く決斷するが能く候と答ふ。長政、又同分別にも肝要ありやと問ふ。隆景、之あり、分別の肝要は仁愛なり、萬事を決斷するに、仁愛を本として分別すれば、萬一其思慮理に當らざることありとも遠からず、仁愛なき分別は才智巧みなりとも、皆僻事なりと知り給ふべしと答へけり。 ○隆景、平生人の善言を取り用ふ。士は申に及ばず、下部にも其者の知るべきことをば尋ね問て、其者の申所然るべきことあれば取用て行ひける。其上是は何の某と曰ふ者が申たるにより、箇樣にするなりと言はれけり。故に人々進みて言を獻ぜしとぞ。 ○隆景、初め堪忍の二字を書きて壁に掛けしが、後には思案の二字に書替られたりとぞ。 ○隆景、或時急速のことありて、右筆に物を書かするに、急用のことなり、靜に書すべしと言はれしとぞ。 ○隆景、資性廉直、信義を重んじ、苟も戲言なし。若し一たび出言すれば、聊も變改せしことなしとぞ。