名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 遺言三か条
○隆景、遺言三ケ條あり。其一に曰く、天下亂るゝと雖も、輝元指出て兵革の事に預り給ふべからず、只我分國を堅く守りて失はざる謀を成し給ふべし、何となれば、天下を保つべき器量にあらず、若し分限を安んじ守らずして、指出て天下の兵革の謀に預り、或は我分國の外に望み出來なば、必今まで持ちたる國を失ひて、身も危からん。其二に曰く、安國寺と曰ふ僧は勝れて利口の大佞人なれば、人の國家をも覆すべき者なり、彼が謀に與み給はゞ、國家を失ひ給ふべし、必ず慎みて彼に欺れ給ふべからず。其三に曰く、輝元領内の船著に筑紫大名より屋敷を立て、茶屋作り上方往還の時休み所にせんとて、宅地を所望することあるべし、中國を伺ひ兵を入るゝの基なり、毛利家の禍となるべし、必ず貸し給ふべからずとぞ、言ける。輝元遺言を忘れ、安國寺の勸めにより石田三成に與みし、隆景の遺言少しも違はず、浦屋敷のこと計りは其沙汰なしと、皆人思へる所に、遙に程經て後、黑田長政より、毛利家へ使を遣はし、上方往來の時休息の爲め茶屋を取立申度候間、周防の中に屋敷貸し賜はれと望みける。此時は天下既に平らかに成りしかば、長政何心もなくて申入れしなるべけれども、隆景の遺言二ケ條まで違はざりしに懲りて、此屋敷地を黑田に貸さざりしとぞ。
新字:○隆景、遺言三ケ条あり。其一に曰く、天下乱るゝと雖も、輝元指出て兵革の事に預り給ふべからず、只我分国を堅く守りて失はざる謀を成し給ふべし、何となれば、天下を保つべき器量にあらず、若し分限を安んじ守らずして、指出て天下の兵革の謀に預り、或は我分国の外に望み出来なば、必今まで持ちたる国を失ひて、身も危からん。其二に曰く、安国寺と曰ふ僧は勝れて利口の大佞人なれば、人の国家をも覆すべき者なり、彼が謀に与み給はゞ、国家を失ひ給ふべし、必ず慎みて彼に欺れ給ふべからず。其三に曰く、輝元領内の船著に筑紫大名より屋敷を立て、茶屋作り上方往還の時休み所にせんとて、宅地を所望することあるべし、中国を伺ひ兵を入るゝの基なり、毛利家の禍となるべし、必ず貸し給ふべからずとぞ、言ける。輝元遺言を忘れ、安国寺の勧めにより石田三成に与みし、隆景の遺言少しも違はず、浦屋敷のこと計りは其沙汰なしと、皆人思へる所に、遥に程経て後、黒田長政より、毛利家へ使を遣はし、上方往来の時休息の為め茶屋を取立申度候間、周防の中に屋敷貸し賜はれと望みける。此時は天下既に平らかに成りしかば、長政何心もなくて申入れしなるべけれども、隆景の遺言二ケ条まで違はざりしに懲りて、此屋敷地を黒田に貸さざりしとぞ。
書き下し
○隆景、遺言三ケ條あり。其一に曰く、天下亂るゝと雖も、輝元指出て兵革の事に預り給ふべからず、只我分國を堅く守りて失はざる謀を成し給ふべし、何となれば、天下を保つべき器量にあらず、若し分限を安んじ守らずして、指出て天下の兵革の謀に預り、或は我分國の外に望み出來なば、必今まで持ちたる國を失ひて、身も危からん。其二に曰く、安國寺と曰ふ僧は勝れて利口の大佞人なれば、人の國家をも覆すべき者なり、彼が謀に與み給はゞ、國家を失ひ給ふべし、必ず慎みて彼に欺れ給ふべからず。其三に曰く、輝元領内の船著に筑紫大名より屋敷を立て、茶屋作り上方往還の時休み所にせんとて、宅地を所望することあるべし、中國を伺ひ兵を入るゝの基なり、毛利家の禍となるべし、必ず貸し給ふべからずとぞ、言ける。輝元遺言を忘れ、安國寺の勸めにより石田三成に與みし、隆景の遺言少しも違はず、浦屋敷のこと計りは其沙汰なしと、皆人思へる所に、遙に程經て後、黑田長政より、毛利家へ使を遣はし、上方往來の時休息の爲め茶屋を取立申度候間、周防の中に屋敷貸し賜はれと望みける。此時は天下既に平らかに成りしかば、長政何心もなくて申入れしなるべけれども、隆景の遺言二ケ條まで違はざりしに懲りて、此屋敷地を黑田に貸さざりしとぞ。
現代語訳
隆景には遺言が三か条ありました。その一に言うには、天下が乱れても、輝元は自ら進み出て戦乱に関わってはならない。ただ自分の領国を堅く守って失わないための謀をなさるのがよい。なぜなら、天下を保つほどの器量ではないからだ。もし分限を安んじて守らず、進み出て天下の戦乱の謀に関わり、あるいは自分の領国の外に望みを出すならば、必ず今まで持っていた国を失って、身も危うくなるだろう。その二に言うには、安国寺という僧は優れて口達者な大きな悪賢い者であり、人の国家をも覆すことのできる者である。彼の謀に与するならば、国家を失われるだろう。必ず慎んで彼に欺かれてはならない。その三に言うには、輝元の領内の船着場に筑紫の大名から屋敷を建て、茶屋を作って、上方往還の時の休み所にしたいと、宅地を望むことがあるだろう。それは中国をうかがい、兵を入れる基となり、毛利家の禍となるだろう。必ず貸してはならない、と言ったということです。輝元は遺言を忘れ、安国寺の勧めによって石田三成に与し、隆景の遺言は少しも違いませんでした。浦屋敷のことだけは、その沙汰がなかったと皆が思っていたところ、ずっと後になって、黒田長政から毛利家へ使いが来て、上方往来の時の休息のため茶屋を立てたいので、周防のうちに屋敷を貸してほしいと望みました。この時は天下がすでに平らかになっていたので、長政は何の他意もなく申し入れたのでしょうが、隆景の遺言が二か条まで違わなかったことに懲りて、この屋敷地を黒田に貸さなかったということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 日本の蓋○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中國の蓋にて候に殘り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中國の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても餘りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安國寺、黑田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中國を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の殘りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の殘りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の餘澤を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下國の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後來のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。