名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 若き日の見通し
毛利元就の三子、小早川氏を冒し、左衞門佐に任じ、後從三位權中納言と爲り、大老と爲る。筑前に封ぜられ、名島城に住し、後、備後三原に退老す。慶長二年六月十二日薨、年六十五。 ○隆景、初め德壽と云ふ。幼にして聰敏人に絶せり。年甫十三、大內義隆に質たり。居ること三年にして歸る。密に父元就に申すは、大內家は必ず滅亡せん、何となれば、義隆驕奢度なく、其政を躬らせず、陶晴賢は諫を積みて旨に忤へり、相良武任は阿諛逢迎し、間に乘じて之を讒せり、之に依り群臣皆義隆を厭うて、武任を惡み、心を晴賢に歸する者多し。夫れ上之を疎んじ、下之に歸す、晴賢の反する、立て竢べきなりと。元就、之を頷す。後幾程もなく果して果して其言の如し。 ○晴賢、既に義隆を弑す。元就、義隆の爲めに晴賢を討ぜんと欲すれども、寡は衆に敵し難し、如何せんと詮議せし時に、隆景、時に年十九、進み出て私の宿意を以て干戈を動すこと然るべからず、所詮勅命を以て逆賊を誅し給はんには若かず、軍の勝敗は勢の多少にあらず、義不義を以て論ずべし、義を以て不義を討つに、如何で少勢なればとて勝ざることの候べきと、言ければ、何れも然るべしとありて、天文二十二年十二月、香川左衞門尉光景を使者として、勅を請受け、終に晴賢を討亡せり。
新字:毛利元就の三子、小早川氏を冒し、左衛門佐に任じ、後従三位権中納言と為り、大老と為る。筑前に封ぜられ、名島城に住し、後、備後三原に退老す。慶長二年六月十二日薨、年六十五。 ○隆景、初め徳寿と云ふ。幼にして聰敏人に絶せり。年甫十三、大内義隆に質たり。居ること三年にして帰る。密に父元就に申すは、大内家は必ず滅亡せん、何となれば、義隆驕奢度なく、其政を躬らせず、陶晴賢は諫を積みて旨に忤へり、相良武任は阿諛逢迎し、間に乗じて之を讒せり、之に依り群臣皆義隆を厭うて、武任を悪み、心を晴賢に帰する者多し。夫れ上之を疎んじ、下之に帰す、晴賢の反する、立て竢べきなりと。元就、之を頷す。後幾程もなく果して果して其言の如し。 ○晴賢、既に義隆を弑す。元就、義隆の為めに晴賢を討ぜんと欲すれども、寡は衆に敵し難し、如何せんと詮議せし時に、隆景、時に年十九、進み出て私の宿意を以て干戈を動すこと然るべからず、所詮勅命を以て逆賊を誅し給はんには若かず、軍の勝敗は勢の多少にあらず、義不義を以て論ずべし、義を以て不義を討つに、如何で少勢なればとて勝ざることの候べきと、言ければ、何れも然るべしとありて、天文二十二年十二月、香川左衛門尉光景を使者として、勅を請受け、終に晴賢を討亡せり。
書き下し
毛利元就の三子、小早川氏を冒し、左衞門佐に任じ、後從三位權中納言と爲り、大老と爲る。筑前に封ぜられ、名島城に住し、後、備後三原に退老す。慶長二年六月十二日薨、年六十五。 ○隆景、初め德壽と云ふ。幼にして聰敏人に絶せり。年甫十三、大內義隆に質たり。居ること三年にして歸る。密に父元就に申すは、大內家は必ず滅亡せん、何となれば、義隆驕奢度なく、其政を躬らせず、陶晴賢は諫を積みて旨に忤へり、相良武任は阿諛逢迎し、間に乘じて之を讒せり、之に依り群臣皆義隆を厭うて、武任を惡み、心を晴賢に歸する者多し。夫れ上之を疎んじ、下之に歸す、晴賢の反する、立て竢べきなりと。元就、之を頷す。後幾程もなく果して果して其言の如し。 ○晴賢、既に義隆を弑す。元就、義隆の爲めに晴賢を討ぜんと欲すれども、寡は衆に敵し難し、如何せんと詮議せし時に、隆景、時に年十九、進み出て私の宿意を以て干戈を動すこと然るべからず、所詮勅命を以て逆賊を誅し給はんには若かず、軍の勝敗は勢の多少にあらず、義不義を以て論ずべし、義を以て不義を討つに、如何で少勢なればとて勝ざることの候べきと、言ければ、何れも然るべしとありて、天文二十二年十二月、香川左衞門尉光景を使者として、勅を請受け、終に晴賢を討亡せり。
現代語訳
毛利元就の三男で、小早川氏を名乗り、左衛門佐に任じ、のち従三位権中納言となり、大老となりました。筑前に封ぜられて名島城に住み、のち備後三原に退いて老いを養いました。慶長二年六月十二日に亡くなり、年六十五でした。 ○隆景は、はじめ徳寿と呼ばれました。幼いころから聡明で、人より抜きんでていました。十三歳のとき、大内義隆のもとに人質となりました。三年いて帰ってきました。ひそかに父の元就に申しました。大内家は必ず滅びるでしょう。なぜなら、義隆は驕りぜいたくが度を越し、政治を自ら執らず、陶晴賢は諫言を重ねて意に逆らい、相良武任はへつらい迎合して、機に乗じて晴賢を讒言しています。そのため家臣たちは皆義隆を厭い、武任を憎み、心を晴賢に寄せる者が多いのです。上がこれを疎んじ、下がこれに帰する。晴賢が反するのは、立ったまま待てるほどです、と。元就はこれにうなずきました。のちいくらもたたず、果たしてその言葉のとおりになりました。 ○晴賢がすでに義隆を弑すると、元就は義隆のために晴賢を討とうと思いましたが、少数は大勢に敵いにくい、どうしようかと協議していたとき、隆景は十九歳で、進み出て言いました。私の宿意で戦をするのはよくありません。結局、勅命によって逆賊を誅されるのがいちばんです。軍の勝敗は勢の多少によるものではなく、義と不義で論ずるべきです。義をもって不義を討つのに、少勢だからといって勝てないことがどうしてありましょうか。人々はいかにもそのとおりだと言い、天文二十二年十二月、香川左衛門尉光景を使者として、勅を請け受け、ついに晴賢を討ち亡ぼしました。
解説

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史記 殷本紀是の時に当たり、夏桀虐政淫荒を為し、而して諸侯昆吾氏乱を為す。湯乃ち師を興して諸侯を率ゐ、伊尹湯に従ふ。湯自ら鉞を把りて以て昆吾を伐ち、遂に桀を伐つ。湯曰く、「格れ女衆庶、来たれ、女悉く朕が言を聴け。台小子の、敢へて行ひて乱を挙ぐるに匪ず。有夏罪多し。予維れ女衆の言を聞くに、夏氏罪有り。予上帝を畏れ、敢へて正さずんばあらず。今夏罪多く、天命じて之を殛す。今女衆有り、女曰く、『我が君我が衆を恤れまず、我が嗇事を舍てて政を割く』と。女其れ曰く、『罪有り、其れ柰何』と。夏王率ゐて衆の力を止め、率ゐて夏国を奪ふ。衆有りて率ゐて怠り和せず、曰く、『是の日何の時にか喪びん。予女と皆亡びん』と。夏の徳茲の若し、今朕必ず往かん。爾尚はくは予一人に及びて天の罰を致せ。予其れ大いに女に理せん。女信ぜざること毋かれ、朕食言せず。女誓言に従はずんば、予則ち帑僇し、攸赦すこと有る無からん」と。以て師に告令し、湯誓を作る。是に於て湯曰く、「吾甚だ武なり」と。号して武王と曰ふ。桀有娀の虚に敗れ、桀鳴条に犇り、夏の師敗績す。湯遂に三㚇を伐ち、厥の宝玉を俘にす。義伯・仲伯典宝を作る。湯既に夏に勝ち、其の社を遷さんと欲するも、可ならず、夏社を作る。伊尹報ず。是に於て諸侯畢く服し、湯乃ち天子の位を践み、海内を平定す。湯帰りて泰卷陶に至り、中𤳹誥を作る。既に夏の命を絀け、亳に還り、湯誥を作る。「維れ三月、王自ら東郊に至る。諸侯羣后に告ぐ、『民に功有らずんばあらず、力を勤めて迺ち事とせよ。予乃ち大いに罰して女を殛せん、予を怨む毋かれ』と。曰く、『古禹・皋陶久しく外に労し、其の民に功有り、民乃ち安んずる有り。東を江と為し、北を済と為し、西を河と為し、南を淮と為し、四瀆已に修まり、万民乃ち居る有り。后稷降りて播き、農百穀を殖やす。三公咸民に功有り、故に后立つ有り。昔蚩尤其の大夫と乱を百姓に作す。帝乃ち予さず、状有り。
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