名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 天下を見通す
世又泰平に屬すべき期漸く近きに在り、此時に當りて、自然天下の權を握り海內の亂を拂ふ人などかなかるべき、此年比秀吉の振舞を傳聞くに、其事恐らくは此人にやありぬべき、去れば此度、信長が死せしこと、秀吉の身に取ては深き禍には似たれども、天下此人に歸すべき時既に至りぬと、覺ゆるなり、多く秀吉の振舞を論ずるにも及ばず、今兩家好み既に成らんとする時に臨みて、只尋常の心ならんには、如何にもして信長が死を深く隱くし、盟を結びてこそ其事をも披露あるべきに、斯くまで、直に申送る條、甚だ以て不敵なり、然るに今初めの詞に引替て、秀吉と中違ひしたらんには、長く當家の仇を結び、我家終に彼が爲めに亡んこと遠きにあるべからず、只此儘に和睦し、前途後榮を此人と共に期し給ふには若くべからずと、又餘儀なく言しかば、福原越前守廣俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事變ずべからざる旨、輝元を始として、宗徒の人々皆起請文を送られけり。秀吉大に喜びて、此好み長く變ずることあらじとて、是も起請文書して送られけり。此上は逆臣を速に誅戮あるべしとて、明ば六日、秀吉、備中を立ちて都に赴く。輝元頃て秀吉に加勢して、叔父藤四郞元綱に、桂民部大輔附けて人質にぞ出しける。程なく明智亡び、天下終に秀吉に歸せしこと、隆景の計りしに少しも違はざりけり。
新字:世又泰平に属すべき期漸く近きに在り、此時に当りて、自然天下の権を握り海内の乱を払ふ人などかなかるべき、此年比秀吉の振舞を伝聞くに、其事恐らくは此人にやありぬべき、去れば此度、信長が死せしこと、秀吉の身に取ては深き禍には似たれども、天下此人に帰すべき時既に至りぬと、覚ゆるなり、多く秀吉の振舞を論ずるにも及ばず、今両家好み既に成らんとする時に臨みて、只尋常の心ならんには、如何にもして信長が死を深く隠くし、盟を結びてこそ其事をも披露あるべきに、斯くまで、直に申送る条、甚だ以て不敵なり、然るに今初めの詞に引替て、秀吉と中違ひしたらんには、長く当家の仇を結び、我家終に彼が為めに亡んこと遠きにあるべからず、只此儘に和睦し、前途後栄を此人と共に期し給ふには若くべからずと、又余儀なく言しかば、福原越前守広俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事変ずべからざる旨、輝元を始として、宗徒の人々皆起請文を送られけり。秀吉大に喜びて、此好み長く変ずることあらじとて、是も起請文書して送られけり。此上は逆臣を速に誅戮あるべしとて、明ば六日、秀吉、備中を立ちて都に赴く。輝元頃て秀吉に加勢して、叔父藤四郎元綱に、桂民部大輔附けて人質にぞ出しける。程なく明智亡び、天下終に秀吉に帰せしこと、隆景の計りしに少しも違はざりけり。
書き下し
世又泰平に屬すべき期漸く近きに在り、此時に當りて、自然天下の權を握り海內の亂を拂ふ人などかなかるべき、此年比秀吉の振舞を傳聞くに、其事恐らくは此人にやありぬべき、去れば此度、信長が死せしこと、秀吉の身に取ては深き禍には似たれども、天下此人に歸すべき時既に至りぬと、覺ゆるなり、多く秀吉の振舞を論ずるにも及ばず、今兩家好み既に成らんとする時に臨みて、只尋常の心ならんには、如何にもして信長が死を深く隱くし、盟を結びてこそ其事をも披露あるべきに、斯くまで、直に申送る條、甚だ以て不敵なり、然るに今初めの詞に引替て、秀吉と中違ひしたらんには、長く當家の仇を結び、我家終に彼が爲めに亡んこと遠きにあるべからず、只此儘に和睦し、前途後榮を此人と共に期し給ふには若くべからずと、又餘儀なく言しかば、福原越前守廣俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事變ずべからざる旨、輝元を始として、宗徒の人々皆起請文を送られけり。秀吉大に喜びて、此好み長く變ずることあらじとて、是も起請文書して送られけり。此上は逆臣を速に誅戮あるべしとて、明ば六日、秀吉、備中を立ちて都に赴く。輝元頃て秀吉に加勢して、叔父藤四郞元綱に、桂民部大輔附けて人質にぞ出しける。程なく明智亡び、天下終に秀吉に歸せしこと、隆景の計りしに少しも違はざりけり。
現代語訳
世もまた泰平に向かう時が近づいているはずです。この時にあたって、自然と天下の権を握り、国内の乱を払う人がいないはずがありません。このところの秀吉の振る舞いを伝え聞くと、その人はおそらく秀吉ではないでしょうか。だからこのたび、信長が死んだことは、秀吉の身にとっては深い禍のようではありますが、天下がこの人に帰すべき時はすでに至ったと思われます。多く秀吉の振る舞いを論じるには及びません。いま両家の好みがまさに成ろうとする時に臨んで、ただ普通の心ならば、何とかして信長の死を深く隠し、盟を結んでからそのことを披露するでしょう。それなのに、これほどまで直に申し送ってきたのは、はなはだ不敵です。今、初めの言葉に引き替えて、秀吉と仲違いしたならば、長く当家の仇となり、わが家がついに彼のために亡びるのも遠くないでしょう。ただこのまま和睦し、今後の栄えをこの人と共に期されるのがいちばんです、と、やむを得ずまた言いました。そこで福原越前守広俊が秀吉の陣へ行き、信長の死を弔い、和睦の事は変わりないという旨を、輝元をはじめとして主だった人々が皆、起請文に書いて送りました。秀吉は大いに喜び、この好みは長く変わることはあるまいと、これも起請文を書いて送りました。この上は逆臣を速やかに誅戮されるべきだと、明くる六日、秀吉は備中を立って都へ向かいました。輝元はまもなく秀吉に加勢し、叔父の藤四郎元綱に桂民部大輔を付けて、人質として出しました。ほどなく明智は亡び、天下がついに秀吉に帰したのは、隆景の見通したことと少しも違いませんでした。
解説

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