名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 柳に例えられた人
○隆景、人となり、姿容美しく、沈斷謀慮ありて、父、元就に類せり。秀吉常に隆景を敬重し、屢々大政に參預せしめらる。隆景、己を持すること愼密、嬖幸之を忌むと雖も中傷すること能はず。秀吉の天下を定めしに、隆景の謀居多なり、出す所の號令皆隆景が預り定めし所なりとぞ。 ○安國寺、秀吉に諂ひ事ふ。人皆其姦を知らず。隆景、輝元に語て曰く、某嘗て惠瓊と太閤に侍せし時、談偶〻其先妣薨去のことに及びければ、太閤流涕數行に及ばれたり。然る所惠瓊も亦流涕數行に及べり。惠瓊が心何にも哀感すべきことなし、然るを僞て哀感し、太閤に阿諛す。太閤之を察せられず、親愛益々深し、太閤薨じ給はゞ、只恐くは此僧國を誤らんと言ひしが、果して石田三成に黨し、豐臣氏の社稷を誤れり。 ○隆景、奸人と交はりても之が爲めに混濁せず。常に弱を以て強を制し、柔を以て剛を制す。故に當時之を楊柳に比せり。元就嘗て曰く、仁を施し、民を愛し、國家を保つことは、我、隆景に及ばずとありて、常に治國のことをば委任せられけり。
新字:○隆景、人となり、姿容美しく、沈断謀慮ありて、父、元就に類せり。秀吉常に隆景を敬重し、屡々大政に参預せしめらる。隆景、己を持すること慎密、嬖幸之を忌むと雖も中傷すること能はず。秀吉の天下を定めしに、隆景の謀居多なり、出す所の号令皆隆景が預り定めし所なりとぞ。 ○安国寺、秀吉に諂ひ事ふ。人皆其姦を知らず。隆景、輝元に語て曰く、某嘗て恵瓊と太閤に侍せし時、談偶〻其先妣薨去のことに及びければ、太閤流涕数行に及ばれたり。然る所恵瓊も亦流涕数行に及べり。恵瓊が心何にも哀感すべきことなし、然るを偽て哀感し、太閤に阿諛す。太閤之を察せられず、親愛益々深し、太閤薨じ給はゞ、只恐くは此僧国を誤らんと言ひしが、果して石田三成に党し、豊臣氏の社稷を誤れり。 ○隆景、奸人と交はりても之が為めに混濁せず。常に弱を以て強を制し、柔を以て剛を制す。故に当時之を楊柳に比せり。元就嘗て曰く、仁を施し、民を愛し、国家を保つことは、我、隆景に及ばずとありて、常に治国のことをば委任せられけり。
書き下し
○隆景、人となり、姿容美しく、沈斷謀慮ありて、父、元就に類せり。秀吉常に隆景を敬重し、屢々大政に參預せしめらる。隆景、己を持すること愼密、嬖幸之を忌むと雖も中傷すること能はず。秀吉の天下を定めしに、隆景の謀居多なり、出す所の號令皆隆景が預り定めし所なりとぞ。 ○安國寺、秀吉に諂ひ事ふ。人皆其姦を知らず。隆景、輝元に語て曰く、某嘗て惠瓊と太閤に侍せし時、談偶〻其先妣薨去のことに及びければ、太閤流涕數行に及ばれたり。然る所惠瓊も亦流涕數行に及べり。惠瓊が心何にも哀感すべきことなし、然るを僞て哀感し、太閤に阿諛す。太閤之を察せられず、親愛益々深し、太閤薨じ給はゞ、只恐くは此僧國を誤らんと言ひしが、果して石田三成に黨し、豐臣氏の社稷を誤れり。 ○隆景、奸人と交はりても之が爲めに混濁せず。常に弱を以て強を制し、柔を以て剛を制す。故に當時之を楊柳に比せり。元就嘗て曰く、仁を施し、民を愛し、國家を保つことは、我、隆景に及ばずとありて、常に治國のことをば委任せられけり。
現代語訳
隆景は人となりが姿形美しく、落ち着いて決断し謀りごとの思慮があって、父の元就に似ていました。秀吉は常に隆景を敬い重んじ、たびたび大きな政治に参与させました。隆景は身を持することが慎み深く細やかで、側近の寵臣がこれを忌んでも、中傷することはできませんでした。秀吉が天下を定めるにあたって、隆景の謀が多くを占め、出した号令は皆、隆景がかかわって定めたものだということです。 安国寺は秀吉にへつらって仕えていました。人は皆その悪賢さを知りませんでした。隆景は輝元に語って言いました。私がかつて恵瓊と太閤に侍っていた時、話がたまたま太閤の亡き母君の死去のことに及んだところ、太閤は涙を幾筋も流されました。すると恵瓊もまた涙を幾筋も流しました。恵瓊の心にはまったく哀れみ感じるべきものはないのに、偽って哀れみ感じ、太閤にへつらっています。太閤はこれをお察しにならず、親愛はますます深まっています。太閤が亡くなられたなら、恐らくはこの僧が国を誤るでしょう、と言いましたが、はたして石田三成に味方し、豊臣氏の社稷を誤りました。 隆景は、悪賢い人と交わっても、そのために濁ることがありませんでした。常に弱さをもって強さを制し、柔らかさをもって剛を制しました。だから当時の人は隆景を楊柳にたとえました。元就はかつて言いました。仁を施し、民を愛し、国家を保つことは、私は隆景に及ばない、と。そこで常に国を治めることは隆景に任せていました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 日本の蓋○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中國の蓋にて候に殘り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中國の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても餘りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安國寺、黑田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中國を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の殘りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の殘りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の餘澤を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下國の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後來のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 負け戦の備え○此役、城將北條氏規、德川家康及、北畠信雄、城中に內通ありと流言させたり。軍皆疑懼す。秀吉、隆景が策を用ひて、近臣僅に數人にて、家康、信雄の陣營に行かれ、飲を催さる。之に依り流言立どころに止みたり。 ○征韓の役、既に國都へ入らんとして、三奉行等相議して備定を爲し終りて、石田三成自慢顏にて隆景に向ひ、斯の如く備定を成せり、尙ほ非を打たるべきことありやと問ふ。隆景、何にとて我等の非を打申すべきことあるべき、申分なき御備定なりと言ふ。三成、太閤御差圖にて弓箭談合の爲め御渡海のことなれば、思召寄りの所承はりたしと言ければ、隆景、此上は辭するも其恐少なからず、依て鄙見を陳述すべしとて申けるは、殘る所なき御備定なれば、必必定御勝利なるべし、去りながら戰と申すは、時により所によりて思ひ定めたる圖の外るゝことあるものなり、此御備定は皆勝軍の時計りのことなり、自然又負くることもあるものなれば、負軍したる時の御思案ありたしと。三成眼を塞ぎ柱に倚り掛り、暫くありて眼を開て曰く、小早川殿御免候へ、先刻より不都合なることを申出たり、去らば負たる時の思案致すべしとて、有筆を呼で共に一室に入り、都までの傳への城取の繪圖と城主等を書記して來り、隆景に示す。隆景見て然るべしと言て其座を立てり。後追々傳への城普請ありて、城主を置きたり。終に都へ打入りし後我軍深入して敗軍の時、傳への城々まで引取ては、退き〳〵次第々々に引揚けて終に軍を全うせしは、隆景の謀なり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 若き日の見通し毛利元就の三子、小早川氏を冒し、左衞門佐に任じ、後從三位權中納言と爲り、大老と爲る。筑前に封ぜられ、名島城に住し、後、備後三原に退老す。慶長二年六月十二日薨、年六十五。 ○隆景、初め德壽と云ふ。幼にして聰敏人に絶せり。年甫十三、大內義隆に質たり。居ること三年にして歸る。密に父元就に申すは、大內家は必ず滅亡せん、何となれば、義隆驕奢度なく、其政を躬らせず、陶晴賢は諫を積みて旨に忤へり、相良武任は阿諛逢迎し、間に乘じて之を讒せり、之に依り群臣皆義隆を厭うて、武任を惡み、心を晴賢に歸する者多し。夫れ上之を疎んじ、下之に歸す、晴賢の反する、立て竢べきなりと。元就、之を頷す。後幾程もなく果して果して其言の如し。 ○晴賢、既に義隆を弑す。元就、義隆の爲めに晴賢を討ぜんと欲すれども、寡は衆に敵し難し、如何せんと詮議せし時に、隆景、時に年十九、進み出て私の宿意を以て干戈を動すこと然るべからず、所詮勅命を以て逆賊を誅し給はんには若かず、軍の勝敗は勢の多少にあらず、義不義を以て論ずべし、義を以て不義を討つに、如何で少勢なればとて勝ざることの候べきと、言ければ、何れも然るべしとありて、天文二十二年十二月、香川左衞門尉光景を使者として、勅を請受け、終に晴賢を討亡せり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 天下を見通す世又泰平に屬すべき期漸く近きに在り、此時に當りて、自然天下の權を握り海內の亂を拂ふ人などかなかるべき、此年比秀吉の振舞を傳聞くに、其事恐らくは此人にやありぬべき、去れば此度、信長が死せしこと、秀吉の身に取ては深き禍には似たれども、天下此人に歸すべき時既に至りぬと、覺ゆるなり、多く秀吉の振舞を論ずるにも及ばず、今兩家好み既に成らんとする時に臨みて、只尋常の心ならんには、如何にもして信長が死を深く隱くし、盟を結びてこそ其事をも披露あるべきに、斯くまで、直に申送る條、甚だ以て不敵なり、然るに今初めの詞に引替て、秀吉と中違ひしたらんには、長く當家の仇を結び、我家終に彼が爲めに亡んこと遠きにあるべからず、只此儘に和睦し、前途後榮を此人と共に期し給ふには若くべからずと、又餘儀なく言しかば、福原越前守廣俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事變ずべからざる旨、輝元を始として、宗徒の人々皆起請文を送られけり。秀吉大に喜びて、此好み長く變ずることあらじとて、是も起請文書して送られけり。此上は逆臣を速に誅戮あるべしとて、明ば六日、秀吉、備中を立ちて都に赴く。輝元頃て秀吉に加勢して、叔父藤四郞元綱に、桂民部大輔附けて人質にぞ出しける。程なく明智亡び、天下終に秀吉に歸せしこと、隆景の計りしに少しも違はざりけり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 評・毛利の両川○毛利の兩川 元就は、子までよく生みたる果報めでたき大將と云はれた。長男の隆元は、早く死んだが、吉川元春と小早川隆景とが、父を恥しめぬ名將で、幼の輝元を庇護して、毛利氏の社稷をガツチリと踏み堅めたのである。 吉川は、鬼吉川と云はれて、鐵の如き勇將である。質素剛健で、乃木大將のやうな風格の人ではないかと思ふ。隆景は、それと反對に容姿端麗な優雅な武將だ。吉川が生一本の武人であるに對し、之は外交家であり、政治家であつた。世人が、前者を雪梅、後者を楊柳と呼んだところに、兩者の風貌が察せられる。ところが、この楊柳が、戰爭となると、兄に負けない位強く、朝鮮陣には碧蹄館で、明の十萬の大軍を馳けちらして、武威を異朝に轟かしたのだから、たいしたものである。 元春が、結婚に際しても、毛利家本位の國策結婚をしたなど、到底凡人の企て及ぶところでない。尤も、そのために長男の元長は眼光鋭く秀吉を氣味わるがらせたと傳へられてゐる。 しかも、父の遺訓を守り、兄弟協力して毛利のために盡くしてゐる。さすが、大敵秀吉を迎へたときには、その對策に對して、兄弟の間に、屢々意見が別れたらしいが、しかしそのために、不和になつたり、内訌を起したことはなかつた。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 遺言三か条○隆景、遺言三ケ條あり。其一に曰く、天下亂るゝと雖も、輝元指出て兵革の事に預り給ふべからず、只我分國を堅く守りて失はざる謀を成し給ふべし、何となれば、天下を保つべき器量にあらず、若し分限を安んじ守らずして、指出て天下の兵革の謀に預り、或は我分國の外に望み出來なば、必今まで持ちたる國を失ひて、身も危からん。其二に曰く、安國寺と曰ふ僧は勝れて利口の大佞人なれば、人の國家をも覆すべき者なり、彼が謀に與み給はゞ、國家を失ひ給ふべし、必ず慎みて彼に欺れ給ふべからず。其三に曰く、輝元領内の船著に筑紫大名より屋敷を立て、茶屋作り上方往還の時休み所にせんとて、宅地を所望することあるべし、中國を伺ひ兵を入るゝの基なり、毛利家の禍となるべし、必ず貸し給ふべからずとぞ、言ける。輝元遺言を忘れ、安國寺の勸めにより石田三成に與みし、隆景の遺言少しも違はず、浦屋敷のこと計りは其沙汰なしと、皆人思へる所に、遙に程經て後、黑田長政より、毛利家へ使を遣はし、上方往來の時休息の爲め茶屋を取立申度候間、周防の中に屋敷貸し賜はれと望みける。此時は天下既に平らかに成りしかば、長政何心もなくて申入れしなるべけれども、隆景の遺言二ケ條まで違はざりしに懲りて、此屋敷地を黑田に貸さざりしとぞ。