名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 鍋島直茂の評
○鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、當時日本にて名將と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左樣に隆景と、我と似たる樣に申すぞ、田舎者にて上方の事を知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。其故は先年太閤御前にて諸大名列座の時、御意には其方共に數年苦勞致させ候に、知行を遣はし度思へども、如何にしても日本小國にて地が足らず、唐天竺を伐取り、其方抔に存分に知行を遣はすべくと思ふ、如何あるべきやと仰出されたり。其時は御亂心かと思ふ程にてありし。一人も、御挨拶申す者なし、其時隆景一人進み出で、成程御尤の儀然るべく存奉ると申上らる、其時我等心に隆景は世に分別者と聞きしが、偖は輕薄者と思ひたり、未だ見もせぬ朝鮮のことを思召立れ候へと申上られしこと、物笑しく聞居りしが、去らば祐筆を呼出し、一ッ書にて掟等を定めんとて、朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤是は問はり申すべく、彼は何々と遂一申上けられたり。如何なる事かと思ひ居たりしが、偖其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上けしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。實に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。
新字:○鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、当時日本にて名将と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左様に隆景と、我と似たる様に申すぞ、田舎者にて上方の事を知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。其故は先年太閤御前にて諸大名列座の時、御意には其方共に数年苦労致させ候に、知行を遣はし度思へども、如何にしても日本小国にて地が足らず、唐天竺を伐取り、其方抔に存分に知行を遣はすべくと思ふ、如何あるべきやと仰出されたり。其時は御乱心かと思ふ程にてありし。一人も、御挨拶申す者なし、其時隆景一人進み出で、成程御尤の儀然るべく存奉ると申上らる、其時我等心に隆景は世に分別者と聞きしが、偖は軽薄者と思ひたり、未だ見もせぬ朝鮮のことを思召立れ候へと申上られしこと、物笑しく聞居りしが、去らば祐筆を呼出し、一ッ書にて掟等を定めんとて、朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤是は問はり申すべく、彼は何々と遂一申上けられたり。如何なる事かと思ひ居たりしが、偖其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上けしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。実に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。
書き下し
○鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、當時日本にて名將と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左樣に隆景と、我と似たる樣に申すぞ、田舎者にて上方の事を知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。其故は先年太閤御前にて諸大名列座の時、御意には其方共に數年苦勞致させ候に、知行を遣はし度思へども、如何にしても日本小國にて地が足らず、唐天竺を伐取り、其方抔に存分に知行を遣はすべくと思ふ、如何あるべきやと仰出されたり。其時は御亂心かと思ふ程にてありし。一人も、御挨拶申す者なし、其時隆景一人進み出で、成程御尤の儀然るべく存奉ると申上らる、其時我等心に隆景は世に分別者と聞きしが、偖は輕薄者と思ひたり、未だ見もせぬ朝鮮のことを思召立れ候へと申上られしこと、物笑しく聞居りしが、去らば祐筆を呼出し、一ッ書にて掟等を定めんとて、朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤是は問はり申すべく、彼は何々と遂一申上けられたり。如何なる事かと思ひ居たりしが、偖其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上けしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。實に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。
現代語訳
○鍋島直茂の家臣、綾部右京が直茂に向かい、このごろ日本で名将と申すのは小早川殿と殿であるとの風聞でございますと申しました。直茂は、どういうことを聞いて、そのように隆景とわれとが似ているように言うのか、田舎者で上方のことを知らぬ者の申すことだろう。比べて言うべき人ではない。その理由は、先年、太閤の御前で諸大名が列座していたとき、仰せには、そなたらに数年苦労させたので知行を与えたいと思うが、どうしても日本は小国で地が足りない。唐・天竺を討ち取って、そなたらに存分に知行を与えようと思うが、どうであろうか、と仰せ出されたことがあった。そのときは乱心かと思うほどだった。一人も返事を申す者はなかった。そのとき、隆景ただ一人が進み出て、もっともなことで、しかるべきと存じ奉りますと申し上げられた。そのとき、われらは心の中で、隆景は世に分別者と聞いたが、さては軽薄者であったかと思った。まだ見もしない朝鮮のことを思い立たれましたと申し上げたことが、おかしく聞こえた。ところが、では祐筆を呼び出し、一つ書きで掟などを定めようと、朝鮮の陣中のことをだんだんご詮議になった。太閤が仰せ出されることを、それはもっともだ、これは問題になるでしょう、あれはこれこれと、一つ一つ申し上げられた。どういうことかと思っていたが、さてその後、朝鮮に渡海して見ると、七年の在陣中、隆景が申し上げたことに少しも違いなく、皆、割符を合わせたようであった。実に天下の名人で、比べるべき人ではない、と言われました。
解説

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