名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 評・毛利の両川
○毛利の兩川 元就は、子までよく生みたる果報めでたき大將と云はれた。長男の隆元は、早く死んだが、吉川元春と小早川隆景とが、父を恥しめぬ名將で、幼の輝元を庇護して、毛利氏の社稷をガツチリと踏み堅めたのである。 吉川は、鬼吉川と云はれて、鐵の如き勇將である。質素剛健で、乃木大將のやうな風格の人ではないかと思ふ。隆景は、それと反對に容姿端麗な優雅な武將だ。吉川が生一本の武人であるに對し、之は外交家であり、政治家であつた。世人が、前者を雪梅、後者を楊柳と呼んだところに、兩者の風貌が察せられる。ところが、この楊柳が、戰爭となると、兄に負けない位強く、朝鮮陣には碧蹄館で、明の十萬の大軍を馳けちらして、武威を異朝に轟かしたのだから、たいしたものである。 元春が、結婚に際しても、毛利家本位の國策結婚をしたなど、到底凡人の企て及ぶところでない。尤も、そのために長男の元長は眼光鋭く秀吉を氣味わるがらせたと傳へられてゐる。 しかも、父の遺訓を守り、兄弟協力して毛利のために盡くしてゐる。さすが、大敵秀吉を迎へたときには、その對策に對して、兄弟の間に、屢々意見が別れたらしいが、しかしそのために、不和になつたり、内訌を起したことはなかつた。
新字:○毛利の両川 元就は、子までよく生みたる果報めでたき大将と云はれた。長男の隆元は、早く死んだが、吉川元春と小早川隆景とが、父を恥しめぬ名将で、幼の輝元を庇護して、毛利氏の社稷をガツチリと踏み堅めたのである。 吉川は、鬼吉川と云はれて、鉄の如き勇将である。質素剛健で、乃木大将のやうな風格の人ではないかと思ふ。隆景は、それと反対に容姿端麗な優雅な武将だ。吉川が生一本の武人であるに対し、之は外交家であり、政治家であつた。世人が、前者を雪梅、後者を楊柳と呼んだところに、両者の風貌が察せられる。ところが、この楊柳が、戦争となると、兄に負けない位強く、朝鮮陣には碧蹄館で、明の十万の大軍を馳けちらして、武威を異朝に轟かしたのだから、たいしたものである。 元春が、結婚に際しても、毛利家本位の国策結婚をしたなど、到底凡人の企て及ぶところでない。尤も、そのために長男の元長は眼光鋭く秀吉を気味わるがらせたと伝へられてゐる。 しかも、父の遺訓を守り、兄弟協力して毛利のために尽くしてゐる。さすが、大敵秀吉を迎へたときには、その対策に対して、兄弟の間に、屡々意見が別れたらしいが、しかしそのために、不和になつたり、内訌を起したことはなかつた。
書き下し
○毛利の兩川 元就は、子までよく生みたる果報めでたき大將と云はれた。長男の隆元は、早く死んだが、吉川元春と小早川隆景とが、父を恥しめぬ名將で、幼の輝元を庇護して、毛利氏の社稷をガツチリと踏み堅めたのである。 吉川は、鬼吉川と云はれて、鐵の如き勇將である。質素剛健で、乃木大將のやうな風格の人ではないかと思ふ。隆景は、それと反對に容姿端麗な優雅な武將だ。吉川が生一本の武人であるに對し、之は外交家であり、政治家であつた。世人が、前者を雪梅、後者を楊柳と呼んだところに、兩者の風貌が察せられる。ところが、この楊柳が、戰爭となると、兄に負けない位強く、朝鮮陣には碧蹄館で、明の十萬の大軍を馳けちらして、武威を異朝に轟かしたのだから、たいしたものである。 元春が、結婚に際しても、毛利家本位の國策結婚をしたなど、到底凡人の企て及ぶところでない。尤も、そのために長男の元長は眼光鋭く秀吉を氣味わるがらせたと傳へられてゐる。 しかも、父の遺訓を守り、兄弟協力して毛利のために盡くしてゐる。さすが、大敵秀吉を迎へたときには、その對策に對して、兄弟の間に、屢々意見が別れたらしいが、しかしそのために、不和になつたり、内訌を起したことはなかつた。
現代語訳
毛利の両川 元就は、子までよく生んだ果報めでたい大将だと言われた。長男の隆元は早く死んだが、吉川元春と小早川隆景とが、父を恥ずかしめない名将で、幼い輝元を庇護して、毛利氏の社稷をがっちりと踏み固めたのである。 吉川は鬼吉川と言われ、鉄のような勇将である。質素剛健で、乃木大将のような風格の人ではないかと思う。隆景は、それと反対に容姿端麗な優雅な武将だ。吉川が生一本の武人であるのに対し、これは外交家であり、政治家であった。世の人が、前者を雪梅、後者を楊柳と呼んだところに、両者の風貌が察せられる。ところが、この楊柳が、戦争となると、兄に負けないくらい強く、朝鮮の陣では碧蹄館で、明の十万の大軍を蹴散らして、武威を異朝に轟かせたのだから、たいしたものである。 元春が結婚に際しても、毛利家本位の国策結婚をしたなど、とうてい凡人の企ての及ぶところでない。もっとも、そのために長男の元長は眼光鋭く秀吉を気味悪がらせたと伝えられている。 しかも、父の遺訓を守り、兄弟が協力して毛利のために尽くしている。さすが、大敵秀吉を迎えた時には、その対策について、兄弟の間でしばしば意見が分かれたらしいが、しかしそのために不和になったり、内紛を起こしたりしたことはなかった。
解説

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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 柳に例えられた人○隆景、人となり、姿容美しく、沈斷謀慮ありて、父、元就に類せり。秀吉常に隆景を敬重し、屢々大政に參預せしめらる。隆景、己を持すること愼密、嬖幸之を忌むと雖も中傷すること能はず。秀吉の天下を定めしに、隆景の謀居多なり、出す所の號令皆隆景が預り定めし所なりとぞ。 ○安國寺、秀吉に諂ひ事ふ。人皆其姦を知らず。隆景、輝元に語て曰く、某嘗て惠瓊と太閤に侍せし時、談偶〻其先妣薨去のことに及びければ、太閤流涕數行に及ばれたり。然る所惠瓊も亦流涕數行に及べり。惠瓊が心何にも哀感すべきことなし、然るを僞て哀感し、太閤に阿諛す。太閤之を察せられず、親愛益々深し、太閤薨じ給はゞ、只恐くは此僧國を誤らんと言ひしが、果して石田三成に黨し、豐臣氏の社稷を誤れり。 ○隆景、奸人と交はりても之が爲めに混濁せず。常に弱を以て強を制し、柔を以て剛を制す。故に當時之を楊柳に比せり。元就嘗て曰く、仁を施し、民を愛し、國家を保つことは、我、隆景に及ばずとありて、常に治國のことをば委任せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 若き日の見通し毛利元就の三子、小早川氏を冒し、左衞門佐に任じ、後從三位權中納言と爲り、大老と爲る。筑前に封ぜられ、名島城に住し、後、備後三原に退老す。慶長二年六月十二日薨、年六十五。 ○隆景、初め德壽と云ふ。幼にして聰敏人に絶せり。年甫十三、大內義隆に質たり。居ること三年にして歸る。密に父元就に申すは、大內家は必ず滅亡せん、何となれば、義隆驕奢度なく、其政を躬らせず、陶晴賢は諫を積みて旨に忤へり、相良武任は阿諛逢迎し、間に乘じて之を讒せり、之に依り群臣皆義隆を厭うて、武任を惡み、心を晴賢に歸する者多し。夫れ上之を疎んじ、下之に歸す、晴賢の反する、立て竢べきなりと。元就、之を頷す。後幾程もなく果して果して其言の如し。 ○晴賢、既に義隆を弑す。元就、義隆の爲めに晴賢を討ぜんと欲すれども、寡は衆に敵し難し、如何せんと詮議せし時に、隆景、時に年十九、進み出て私の宿意を以て干戈を動すこと然るべからず、所詮勅命を以て逆賊を誅し給はんには若かず、軍の勝敗は勢の多少にあらず、義不義を以て論ずべし、義を以て不義を討つに、如何で少勢なればとて勝ざることの候べきと、言ければ、何れも然るべしとありて、天文二十二年十二月、香川左衞門尉光景を使者として、勅を請受け、終に晴賢を討亡せり。
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