名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 学問と士風を整える
○隆景、筑前に入部し苛法を蠲き、舊弊を改め、士風を整飾し、反側を綏懐し、寛大の政を布き、務めて民を休息せし故、境内悦服せり。又應仁以來天下の亂極まり、文學の道は僧徒の掌る所となり、學校の設け廢すること久し。隆景之を慨き、下野足利の學校に倣ひ、黌舍を建て、先聖を釋奠し、執政より以下士庶人をして、皆學に入らしめて、親ら臨て之を勸勉せしかば、吏民觀聽し、靡然として風を爲せり。又國内の神社久き亂世にて頽破せしをば建立し、小破の所は修理し、社領を寄附せられけり。 ○隆景、夜、微服して名島城下の諸士の邸宅の邊を遊歩す。弓射る聲、劒術の音何によらず武士の藝能學修する者をば大に感じ、又人の會集して世談抔して哄む家をば、是も人好きしけるよな、侍は如何に才智あるとても、人好せざらんは、物事無骨に世事に疎し、能き若士の心得なりと譽められけり。其家の前を通る毎に人音のせざるをば、此者は人愛のなき者なるにや、何ぞ朋友の交はり親みなきやと言はる。又今樣を謠ひ琴を彈じ、尺八の音するをば以の外に機嫌に應ぜざりけり。斯りしかば、人皆武道を琢磨せり。
新字:○隆景、筑前に入部し苛法を蠲き、旧弊を改め、士風を整飾し、反側を綏懐し、寛大の政を布き、務めて民を休息せし故、境内悦服せり。又応仁以来天下の乱極まり、文学の道は僧徒の掌る所となり、学校の設け廃すること久し。隆景之を慨き、下野足利の学校に倣ひ、黌舎を建て、先聖を釈奠し、執政より以下士庶人をして、皆学に入らしめて、親ら臨て之を勧勉せしかば、吏民観聴し、靡然として風を為せり。又国内の神社久き乱世にて頽破せしをば建立し、小破の所は修理し、社領を寄附せられけり。 ○隆景、夜、微服して名島城下の諸士の邸宅の辺を遊歩す。弓射る声、劒術の音何によらず武士の芸能学修する者をば大に感じ、又人の会集して世談抔して哄む家をば、是も人好きしけるよな、侍は如何に才智あるとても、人好せざらんは、物事無骨に世事に疎し、能き若士の心得なりと誉められけり。其家の前を通る毎に人音のせざるをば、此者は人愛のなき者なるにや、何ぞ朋友の交はり親みなきやと言はる。又今様を謡ひ琴を弾じ、尺八の音するをば以の外に機嫌に応ぜざりけり。斯りしかば、人皆武道を琢磨せり。
書き下し
○隆景、筑前に入部し苛法を蠲き、舊弊を改め、士風を整飾し、反側を綏懐し、寛大の政を布き、務めて民を休息せし故、境内悦服せり。又應仁以來天下の亂極まり、文學の道は僧徒の掌る所となり、學校の設け廢すること久し。隆景之を慨き、下野足利の學校に倣ひ、黌舍を建て、先聖を釋奠し、執政より以下士庶人をして、皆學に入らしめて、親ら臨て之を勸勉せしかば、吏民觀聽し、靡然として風を爲せり。又國内の神社久き亂世にて頽破せしをば建立し、小破の所は修理し、社領を寄附せられけり。 ○隆景、夜、微服して名島城下の諸士の邸宅の邊を遊歩す。弓射る聲、劒術の音何によらず武士の藝能學修する者をば大に感じ、又人の會集して世談抔して哄む家をば、是も人好きしけるよな、侍は如何に才智あるとても、人好せざらんは、物事無骨に世事に疎し、能き若士の心得なりと譽められけり。其家の前を通る毎に人音のせざるをば、此者は人愛のなき者なるにや、何ぞ朋友の交はり親みなきやと言はる。又今樣を謠ひ琴を彈じ、尺八の音するをば以の外に機嫌に應ぜざりけり。斯りしかば、人皆武道を琢磨せり。
現代語訳
隆景は筑前に入って、苛酷な法を除き、古い弊害を改め、士風を整え、不満を抱く者をなだめて従わせ、寛大な政治を行い、つとめて民を休ませたので、領内の者は喜んで服しました。また、応仁の乱以来天下の乱れが極まり、学問の道は僧侶の手にあって、学校の設けが廃れて久しくなっていました。隆景はこれを嘆き、下野の足利の学校にならって学舎を建て、先聖を祭り、執政から以下の士庶人にまで皆学ばせ、自ら臨んで勧め励ましたので、役人も民も見聞きして、なびくように風となりました。また、国内の神社が長い乱世で荒れ破れていたのを建て直し、小さな破損は修理し、社領を寄付されました。 隆景は夜、身分を隠した姿で名島城下の諸士の屋敷のあたりを歩きました。弓を射る音、剣術の音など、何によらず武士の芸能を学び修める者のところは大いに感心しました。また、人が集まって世間話などをして楽しんでいる家は、これも人好きするものよ、侍はいかに才智があっても人付き合いをしないのは、物事に無骨で世事に疎い、よい若者の心得だと褒められました。その家の前を通るたびに人の声がしない家は、この者は人の愛のない者だろうか、どうして朋友の交わりや親しみがないのかと言われました。また、今様を歌い、琴を弾き、尺八の音がする家は、もってのほか機嫌に合いませんでした。こうしたことから、人々は皆、武道を磨きました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 日本の蓋○秀吉、隆景の死を聞き大に驚き偖〻惜きこと哉、日本の賢人にてありしに、才智にて命を延るものならば、隆景は百歳までも命を保つべきを、力に及ばざるは人の命なりと言はる。時に前場半入とて伽の坊主侍りしが、上意の如く惜き人にて候、能き中國の蓋にて候に殘り多きことにて候と申ければ、秀吉聞き、偖〻汝は眼の小さきもの哉、隆景を中國の蓋と見るは暗き眼なり、日本の蓋にしても餘りつる隆景なりと言はれけり。 ○隆景薨後、安國寺、黑田孝高の許に至り物語しける時、孝高曰く、隆景薨じて日本に賢人絶えぬ。此人の毛利家に在りしは、船に船頭のあるが如し、平生能く中國を治められし故、隆景薨ぜりと雖も、今も其時に替はらざることは、偏に隆景の力の殘りなり、譬ば船を漕ぎ行きて俄に止むるとも、前より櫓を押したる勢の殘りて、五間十間は其船、先へ行くが如し、去れども押したる勢の弱りたる時、船は行き留まるものなり、輝元も隆景の餘澤を以て今までは見事に見えけれども、此後輝元の思案大事なりと。 ○隆景、鍋島直茂と交はり深し。直茂下國の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立寄り病を訪ふ。隆景後來のことを物語りぬ。直茂流涕して去る。隆景薨後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾んど亡びんとす。是より先、伏見騷動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。