名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 要害の悪い城を残す
○輝元、居城廣島は地形卑くして要害宜しからざれば、山に據りて小高き所に城を築んとて、老臣を集めて評議し、此旨隆景に尋ける。隆景曰く、方今の城宜しからず、然れども城郭は國家安危の係る所なれば大事の決斷なり、黑田孝高は巧者なれば相談申すべくとて、其後孝高西國下向の序に廣島の城を見せける。孝高見て要害惡しきとは思ひながら、輝元八ヶ國を持たる大名なれば、若し異心を懷き此地に籠らん時、要害能くしては秀吉の爲め惡しかりなんと思ひて、此要害苦しからず、只今城地を改め給はんも莫大の苦勞なれば、只此儘にて何の憂かあらんと言ふ。隆景此由を輝元に告けて城を改め築くことを止めさせたり。其後秀吉西國下向の時、此城を見て此城地形卑く、要害惡し、水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。輝元之を聞て、隆景を恨みけるに、隆景聞て要害の惡きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の國多過ぎ候へば、後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害惡くして、籠城成り難しと、秀吉氣遣ひ之なきが即ち當家安全の基なり。孝高は秀吉の近臣なれば、要害惡き所を見せ置き、心安く思はれ申さん爲めなり、孝高定めて要害惡しきとは存ながら秀吉の爲めを思ひ、能しと申べくと推量致せし故、態と孝高に見せたり、若し亦毛利家に不意の變出來籠城に及びなん時は分國の内、何國なりとも要害能き所多く之ある間、廣島の城惡くとも事缺け申こと之なく候、只秀吉より心易く思はれ候が、何より能き城郭にて候と言はれけり。聞く人皆隆景が遠慮に感歎せり。
新字:○輝元、居城広島は地形卑くして要害宜しからざれば、山に拠りて小高き所に城を築んとて、老臣を集めて評議し、此旨隆景に尋ける。隆景曰く、方今の城宜しからず、然れども城郭は国家安危の係る所なれば大事の決断なり、黒田孝高は巧者なれば相談申すべくとて、其後孝高西国下向の序に広島の城を見せける。孝高見て要害悪しきとは思ひながら、輝元八ヶ国を持たる大名なれば、若し異心を懐き此地に籠らん時、要害能くしては秀吉の為め悪しかりなんと思ひて、此要害苦しからず、只今城地を改め給はんも莫大の苦労なれば、只此儘にて何の憂かあらんと言ふ。隆景此由を輝元に告けて城を改め築くことを止めさせたり。其後秀吉西国下向の時、此城を見て此城地形卑く、要害悪し、水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。輝元之を聞て、隆景を恨みけるに、隆景聞て要害の悪きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の国多過ぎ候へば、後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害悪くして、籠城成り難しと、秀吉気遣ひ之なきが即ち当家安全の基なり。孝高は秀吉の近臣なれば、要害悪き所を見せ置き、心安く思はれ申さん為めなり、孝高定めて要害悪しきとは存ながら秀吉の為めを思ひ、能しと申べくと推量致せし故、態と孝高に見せたり、若し亦毛利家に不意の変出来籠城に及びなん時は分国の内、何国なりとも要害能き所多く之ある間、広島の城悪くとも事欠け申こと之なく候、只秀吉より心易く思はれ候が、何より能き城郭にて候と言はれけり。聞く人皆隆景が遠慮に感嘆せり。
書き下し
○輝元、居城廣島は地形卑くして要害宜しからざれば、山に據りて小高き所に城を築んとて、老臣を集めて評議し、此旨隆景に尋ける。隆景曰く、方今の城宜しからず、然れども城郭は國家安危の係る所なれば大事の決斷なり、黑田孝高は巧者なれば相談申すべくとて、其後孝高西國下向の序に廣島の城を見せける。孝高見て要害惡しきとは思ひながら、輝元八ヶ國を持たる大名なれば、若し異心を懷き此地に籠らん時、要害能くしては秀吉の爲め惡しかりなんと思ひて、此要害苦しからず、只今城地を改め給はんも莫大の苦勞なれば、只此儘にて何の憂かあらんと言ふ。隆景此由を輝元に告けて城を改め築くことを止めさせたり。其後秀吉西國下向の時、此城を見て此城地形卑く、要害惡し、水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。輝元之を聞て、隆景を恨みけるに、隆景聞て要害の惡きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の國多過ぎ候へば、後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害惡くして、籠城成り難しと、秀吉氣遣ひ之なきが即ち當家安全の基なり。孝高は秀吉の近臣なれば、要害惡き所を見せ置き、心安く思はれ申さん爲めなり、孝高定めて要害惡しきとは存ながら秀吉の爲めを思ひ、能しと申べくと推量致せし故、態と孝高に見せたり、若し亦毛利家に不意の變出來籠城に及びなん時は分國の内、何國なりとも要害能き所多く之ある間、廣島の城惡くとも事缺け申こと之なく候、只秀吉より心易く思はれ候が、何より能き城郭にて候と言はれけり。聞く人皆隆景が遠慮に感歎せり。
現代語訳
輝元は居城の広島が地形が低くて要害に適さないので、山に拠って小高い所に城を築こうと考え、老臣を集めて評議し、このことを隆景に尋ねました。隆景は、今の城はよくありません、しかし城郭は国家の安危がかかるところなので、大事な決断です、黒田孝高は巧者ですから相談なさるのがよいでしょう、と言いました。その後、孝高が西国へ下向する折に、広島の城を見せました。孝高は見て、要害が悪いとは思いましたが、輝元は八か国を持つ大名なので、もし異心を抱いてこの地に籠もる時に要害が良くては秀吉のためによくないだろうと思い、この要害で差し支えない、今城地を改めるのは莫大な苦労であるから、このままで何の心配があろうかと言いました。隆景はこのことを輝元に告げ、城を改築することを止めさせました。その後、秀吉が西国に下向した時、この城を見て、この城は地形が低く要害が悪い、水攻めにすればたちまち落城するだろうと言いました。輝元はこれを聞いて、隆景を恨みました。隆景は聞いてこう言いました。要害の悪いことが毛利家の長久の謀です。そのわけは、毛利家は国が多すぎるので、後年になって秀吉が疑いを抱くこともあるでしょう。この城は要害が悪く籠城はできない、と秀吉が安心なさることが、すなわち当家安全の基です。孝高は秀吉の近臣なので、要害の悪い所を見せておき、安心して思ってもらうためです。孝高はおそらく要害が悪いとは知りながら、秀吉のために良いと言うだろうと推量したので、わざと孝高に見せたのです。もしまた毛利家に不意の変事が起こって籠城する時は、領国のうちどの国でも要害の良い所が多くありますから、広島の城が悪くても事欠くことはありません。ただ秀吉から安心して思われることが、何よりの良い城郭です、と言いました。聞く人は皆、隆景の遠慮に感嘆しました。
解説

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