名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 国を取るには種が要る
是より以前輝元より宮松丸を養子に定めんことを秀吉へ申上ん由、隆景に相談ありけれども、隆景、今少し待ち給へとて、猶豫せしは、秀秋未だ片付なき内に、輝元、養子のこと申出せし時、若し秀秋を輝元養子に賜はりなば、秀吉の命背き難し、左すれば毛利家は他姓に奪はるべしと思ひ、秀秋を先づ我養子に取て、其後は心安く思ひ、二月計り過ぎて、宮松丸を輝元の養子にせんことを乞ければ、何の障はりもなく許容せられけり。 隆景、秀秋を養子にせしことを、安國寺聞て、隆景に向ひ、御養子御願の儘に相濟み候こと目出度候、然れども是は貴公御一代の御過りなるべし、其故は御養子を成され候も、多き御一族の中何れにても、國を治め給ふべき器量を御見立候て御子に成され候はゞ末の世まで筑前は中國と同く毛利家の御分國なるべきに他姓の金吾殿を御養ひ國を譲り給はんこと、筑前の國は指上けられたる同前の樣に存候、貴公には殿下別して御愛敬成され候へば、今一ヶ國をも御取副へ候とも成間敷ことゝは存ぜず候、左候てこそ毛利家の國も彌々廣くなり申べきに我等は此儀大なる御思案違と存候と言ければ、隆景聞て、西堂には左樣に思はれ候か、我等存意とは表裏にて候、我等平生の氣遣は、毛利家の分國八ヶ國にて、其上筑前を我等領し、凡そ九ヶ國に至り候へば、毛利家には國甚だ多過ぎたるかと存じ、却て毛利家の禍になりなんかと、是のみ心許なく候、然る故に、我國をば毛利の子孫に譲らずして秀秋に譲り候、國を取るにも、種なくしては取られぬものなり、我等は種之なく候へば、何を種として國を望むべきぞや、種なくして欲深くは身の禍となるべし、我身は年寄候へば、頓て身罷るべし、我等死して後毛利家のこと、只今見る樣に思はれ候、元清長命ならば長久の謀もあるべけれども、病者なれば頼み少し、相構へて種もなくして國を望む心あるべからずと言ければ、安國寺道理に感服し、思慮なきこと申出し、面目を失ひ候、然れども後學の爲め善きことを承はり候、と言でぞ歸りける。人皆隆景が宗家の禍に代るを悲めり。
新字:是より以前輝元より宮松丸を養子に定めんことを秀吉へ申上ん由、隆景に相談ありけれども、隆景、今少し待ち給へとて、猶予せしは、秀秋未だ片付なき内に、輝元、養子のこと申出せし時、若し秀秋を輝元養子に賜はりなば、秀吉の命背き難し、左すれば毛利家は他姓に奪はるべしと思ひ、秀秋を先づ我養子に取て、其後は心安く思ひ、二月計り過ぎて、宮松丸を輝元の養子にせんことを乞ければ、何の障はりもなく許容せられけり。 隆景、秀秋を養子にせしことを、安国寺聞て、隆景に向ひ、御養子御願の儘に相済み候こと目出度候、然れども是は貴公御一代の御過りなるべし、其故は御養子を成され候も、多き御一族の中何れにても、国を治め給ふべき器量を御見立候て御子に成され候はゞ末の世まで筑前は中国と同く毛利家の御分国なるべきに他姓の金吾殿を御養ひ国を譲り給はんこと、筑前の国は指上けられたる同前の様に存候、貴公には殿下別して御愛敬成され候へば、今一ヶ国をも御取副へ候とも成間敷ことゝは存ぜず候、左候てこそ毛利家の国も弥々広くなり申べきに我等は此儀大なる御思案違と存候と言ければ、隆景聞て、西堂には左様に思はれ候か、我等存意とは表裏にて候、我等平生の気遣は、毛利家の分国八ヶ国にて、其上筑前を我等領し、凡そ九ヶ国に至り候へば、毛利家には国甚だ多過ぎたるかと存じ、却て毛利家の禍になりなんかと、是のみ心許なく候、然る故に、我国をば毛利の子孫に譲らずして秀秋に譲り候、国を取るにも、種なくしては取られぬものなり、我等は種之なく候へば、何を種として国を望むべきぞや、種なくして欲深くは身の禍となるべし、我身は年寄候へば、頓て身罷るべし、我等死して後毛利家のこと、只今見る様に思はれ候、元清長命ならば長久の謀もあるべけれども、病者なれば頼み少し、相構へて種もなくして国を望む心あるべからずと言ければ、安国寺道理に感服し、思慮なきこと申出し、面目を失ひ候、然れども後学の為め善きことを承はり候、と言でぞ帰りける。人皆隆景が宗家の禍に代るを悲めり。
書き下し
是より以前輝元より宮松丸を養子に定めんことを秀吉へ申上ん由、隆景に相談ありけれども、隆景、今少し待ち給へとて、猶豫せしは、秀秋未だ片付なき内に、輝元、養子のこと申出せし時、若し秀秋を輝元養子に賜はりなば、秀吉の命背き難し、左すれば毛利家は他姓に奪はるべしと思ひ、秀秋を先づ我養子に取て、其後は心安く思ひ、二月計り過ぎて、宮松丸を輝元の養子にせんことを乞ければ、何の障はりもなく許容せられけり。 隆景、秀秋を養子にせしことを、安國寺聞て、隆景に向ひ、御養子御願の儘に相濟み候こと目出度候、然れども是は貴公御一代の御過りなるべし、其故は御養子を成され候も、多き御一族の中何れにても、國を治め給ふべき器量を御見立候て御子に成され候はゞ末の世まで筑前は中國と同く毛利家の御分國なるべきに他姓の金吾殿を御養ひ國を譲り給はんこと、筑前の國は指上けられたる同前の樣に存候、貴公には殿下別して御愛敬成され候へば、今一ヶ國をも御取副へ候とも成間敷ことゝは存ぜず候、左候てこそ毛利家の國も彌々廣くなり申べきに我等は此儀大なる御思案違と存候と言ければ、隆景聞て、西堂には左樣に思はれ候か、我等存意とは表裏にて候、我等平生の氣遣は、毛利家の分國八ヶ國にて、其上筑前を我等領し、凡そ九ヶ國に至り候へば、毛利家には國甚だ多過ぎたるかと存じ、却て毛利家の禍になりなんかと、是のみ心許なく候、然る故に、我國をば毛利の子孫に譲らずして秀秋に譲り候、國を取るにも、種なくしては取られぬものなり、我等は種之なく候へば、何を種として國を望むべきぞや、種なくして欲深くは身の禍となるべし、我身は年寄候へば、頓て身罷るべし、我等死して後毛利家のこと、只今見る樣に思はれ候、元清長命ならば長久の謀もあるべけれども、病者なれば頼み少し、相構へて種もなくして國を望む心あるべからずと言ければ、安國寺道理に感服し、思慮なきこと申出し、面目を失ひ候、然れども後學の爲め善きことを承はり候、と言でぞ歸りける。人皆隆景が宗家の禍に代るを悲めり。
現代語訳
これより前、輝元から宮松丸を養子と定めることを秀吉へ申し上げたいと隆景に相談がありましたが、隆景は、もう少しお待ちなさいと言って猶予させました。それは、秀秋がまだ落ち着き先の定まらないうちに輝元が養子の件を申し出て、もし秀吉が秀秋を輝元の養子に賜わると言えば、秀吉の命には背きがたく、そうなれば毛利家は他の姓の者に奪われてしまうと思ったからです。そこで秀秋をまず自分の養子として引き取り、その後は安心して、二か月ほど過ぎてから宮松丸を輝元の養子にしたいと願い出たところ、何の障りもなく許されました。 隆景が秀秋を養子にしたことを安国寺が聞き、隆景に向かってこう言いました。養子の願いがそのまま済んだことはめでたいが、これは貴公一代の過ちでありましょう。そのわけは、養子をなさるにも、多くの御一族の中のどなたでも、国を治められる器量をお見立てになって御子となさったならば、末の世まで筑前は中国と同じく毛利家の領国でありましょうに、他姓の金吾殿を養って国をお譲りになるのは、筑前の国を差し上げたも同然と存じます。貴公には殿下がとりわけ目をかけておられるので、もう一国を添えて取ることもできないとは思いません。そうしてこそ毛利家の国もいよいよ広くなりましょうに、私はこのことを大きな思案違いと存じます、と言いました。隆景は聞いて、西堂はそのように思われますか、私の考えとは裏表です、と言いました。私が日頃気にかけているのは、毛利家の領国が八か国で、その上に筑前を私が領して、およそ九か国になれば、毛利家には国が多すぎるのではないか、かえって毛利家の禍になるのではないかと、これだけが気がかりでした。だから私の国を毛利の子孫に譲らず秀秋に譲るのです。国を取るにも、種がなくては取れないものです。私には種がありませんので、何を種として国を望むのでしょうか。種がなくて欲が深ければ身の禍となります。私は年寄りで、まもなく亡くなるでしょう。私の死後の毛利家のことは、今見るように思われます。元清が長生きするなら長く続く謀もありましょうが、病弱で頼みが少ない。くれぐれも種もなくて国を望む心を持ってはなりません、と言いました。安国寺は道理に感服し、思慮のないことを申し出して面目を失いました、しかし後学のために良いことを承りました、と言って帰りました。人々は皆、隆景が宗家の禍を代わりに引き受けたことを悲しみました。
解説

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