名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 養子と人質の策
○直茂曰く、隆景太閤へ朝鮮の事を言上の時、我等意見を上陳せんと思ひしが、御意に忤ふも詮なしと思ひて默止せり。其後渡海して見るに、其節の詮議に毫も違はず、是に於て我等一言を控たることを善きことせしと思ひしと。 ○輝元初め子なく、元就の五男穗田元清の子、宮松丸を養て子とす。故に一門始め諸臣悉く宮松丸に拜謁せり。輝元の妻は宍戸隆家の女なり。妻の兄元家に男子六人あり、五男の吉内と云ふを、常に傍に呼寄せ置き、寵愛恰も所生の如し。輝元へも吾等子にし參らせ候へば、殿にも御實子と思召れ候へかし、抔と何卒輝元の養子に成し度との内意なり。之に依り家中の者共、御曹司樣と唱へ尊敬淺からず。隆景之を聞き、婦人とは申ながら沙汰の限りなり、如何樣思ひたればとて、無益のことなれども、雌のくゝ鳴きとて、時々輝元に申さんに、長き中に若し同心もあらんには、家に取りての大事なり、宍戸今の樣子を見聞き候はんには、定めて心中大悦なるべし、大悦に思ふ所に故障之あるに於ては、宍戸必ず恨を含むべし、今秀吉と和睦相調ひ、國靜なりとは言ながら、未だ世間如何成り行く可きや安心ならざる時に、宍戸に恨を含ませては大事の儀なり、何卒跡なき樣にと思案せし所、最前秀吉への人質として能良源五郎、金山孫市二人差上さすべくとありしが、是は輕き者共なれば如何とて、四郎元綱を小早川と名乗らせ差上る。元服のこと秀吉へ申されしかば、藤の字と秀の字とを賜ひ、小早川藤四郎秀包とは名乘てけり。之を善き題と思ひ輝元に言けるは、秀包こと人質として上方に罷在候へども是を隆景が證人の樣に秀吉も思はれ候、兎角秀吉を能く取扱せられずしては大事の儀に候へば、輝元の人質とて御上せなくては叶はざることに候、輕々敷者共御上せにては、結句聞えも如何に候へば、吉内を御上せ然るべくとありければ、輝元如何にも宜きに取計らはれ賜はれかしと申しゝを、妻聞きて殊の外悲歎し、何卒して吉内上らざる樣にと諸寺諸社へ立願せり。嚴島百八十間の廻廊に、一間に一ッづゝ金燈籠を釣らせ、毎夜燈明を付けしも、此立願の時なりとぞ。
新字:○直茂曰く、隆景太閤へ朝鮮の事を言上の時、我等意見を上陳せんと思ひしが、御意に忤ふも詮なしと思ひて黙止せり。其後渡海して見るに、其節の詮議に毫も違はず、是に於て我等一言を控たることを善きことせしと思ひしと。 ○輝元初め子なく、元就の五男穂田元清の子、宮松丸を養て子とす。故に一門始め諸臣悉く宮松丸に拝謁せり。輝元の妻は宍戸隆家の女なり。妻の兄元家に男子六人あり、五男の吉内と云ふを、常に傍に呼寄せ置き、寵愛恰も所生の如し。輝元へも吾等子にし参らせ候へば、殿にも御実子と思召れ候へかし、抔と何卒輝元の養子に成し度との内意なり。之に依り家中の者共、御曹司様と唱へ尊敬浅からず。隆景之を聞き、婦人とは申ながら沙汰の限りなり、如何様思ひたればとて、無益のことなれども、雌のくゝ鳴きとて、時々輝元に申さんに、長き中に若し同心もあらんには、家に取りての大事なり、宍戸今の様子を見聞き候はんには、定めて心中大悦なるべし、大悦に思ふ所に故障之あるに於ては、宍戸必ず恨を含むべし、今秀吉と和睦相調ひ、国静なりとは言ながら、未だ世間如何成り行く可きや安心ならざる時に、宍戸に恨を含ませては大事の儀なり、何卒跡なき様にと思案せし所、最前秀吉への人質として能良源五郎、金山孫市二人差上さすべくとありしが、是は軽き者共なれば如何とて、四郎元綱を小早川と名乗らせ差上る。元服のこと秀吉へ申されしかば、藤の字と秀の字とを賜ひ、小早川藤四郎秀包とは名乗てけり。之を善き題と思ひ輝元に言けるは、秀包こと人質として上方に罷在候へども是を隆景が証人の様に秀吉も思はれ候、兎角秀吉を能く取扱せられずしては大事の儀に候へば、輝元の人質とて御上せなくては叶はざることに候、軽々敷者共御上せにては、結句聞えも如何に候へば、吉内を御上せ然るべくとありければ、輝元如何にも宜きに取計らはれ賜はれかしと申しゝを、妻聞きて殊の外悲嘆し、何卒して吉内上らざる様にと諸寺諸社へ立願せり。厳島百八十間の廻廊に、一間に一ッづゝ金灯籠を釣らせ、毎夜灯明を付けしも、此立願の時なりとぞ。
書き下し
○直茂曰く、隆景太閤へ朝鮮の事を言上の時、我等意見を上陳せんと思ひしが、御意に忤ふも詮なしと思ひて默止せり。其後渡海して見るに、其節の詮議に毫も違はず、是に於て我等一言を控たることを善きことせしと思ひしと。 ○輝元初め子なく、元就の五男穗田元清の子、宮松丸を養て子とす。故に一門始め諸臣悉く宮松丸に拜謁せり。輝元の妻は宍戸隆家の女なり。妻の兄元家に男子六人あり、五男の吉内と云ふを、常に傍に呼寄せ置き、寵愛恰も所生の如し。輝元へも吾等子にし參らせ候へば、殿にも御實子と思召れ候へかし、抔と何卒輝元の養子に成し度との内意なり。之に依り家中の者共、御曹司樣と唱へ尊敬淺からず。隆景之を聞き、婦人とは申ながら沙汰の限りなり、如何樣思ひたればとて、無益のことなれども、雌のくゝ鳴きとて、時々輝元に申さんに、長き中に若し同心もあらんには、家に取りての大事なり、宍戸今の樣子を見聞き候はんには、定めて心中大悦なるべし、大悦に思ふ所に故障之あるに於ては、宍戸必ず恨を含むべし、今秀吉と和睦相調ひ、國靜なりとは言ながら、未だ世間如何成り行く可きや安心ならざる時に、宍戸に恨を含ませては大事の儀なり、何卒跡なき樣にと思案せし所、最前秀吉への人質として能良源五郎、金山孫市二人差上さすべくとありしが、是は輕き者共なれば如何とて、四郎元綱を小早川と名乗らせ差上る。元服のこと秀吉へ申されしかば、藤の字と秀の字とを賜ひ、小早川藤四郎秀包とは名乘てけり。之を善き題と思ひ輝元に言けるは、秀包こと人質として上方に罷在候へども是を隆景が證人の樣に秀吉も思はれ候、兎角秀吉を能く取扱せられずしては大事の儀に候へば、輝元の人質とて御上せなくては叶はざることに候、輕々敷者共御上せにては、結句聞えも如何に候へば、吉内を御上せ然るべくとありければ、輝元如何にも宜きに取計らはれ賜はれかしと申しゝを、妻聞きて殊の外悲歎し、何卒して吉内上らざる樣にと諸寺諸社へ立願せり。嚴島百八十間の廻廊に、一間に一ッづゝ金燈籠を釣らせ、毎夜燈明を付けしも、此立願の時なりとぞ。
現代語訳
○直茂は言いました。隆景が太閤へ朝鮮のことを言上したとき、われらも意見を申し述べようと思ったが、お考えに逆らっても仕方がないと思って黙っていた。その後渡海して見ると、あのときの詮議に少しも違わなかった。これによって、われらが一言を控えたことを善いことをしたと思った、と。 ○輝元にははじめ子がなく、元就の五男である穂田元清の子の宮松丸を養って子としました。そのため一門をはじめ諸臣は残らず宮松丸に拝謁しました。輝元の妻は宍戸隆家の娘でした。妻の兄の元家に男子が六人あり、その五男の吉内という者を常にそばに呼び寄せ、実子のように寵愛しました。輝元へも、私どもの子にしてくださいましたので、殿にも実の子と思し召してくださいなどと、なんとか輝元の養子にしたいという内意でした。このため家中の者は、御曹司様と唱えて敬うこと並々ではありませんでした。隆景はこれを聞き、婦人とはいいながら、沙汰の限りです。いかように思っても無益なことですが、雌鳥の鳴き声のようにと言って、時々輝元に申せば、長い間に、もし同心することがあれば、家にとって大事です。宍戸が今の様子を見聞きすれば、きっと心中大いに喜ぶでしょう。大いに喜んでいるところに支障があれば、宍戸は必ず恨みを含むでしょう。今、秀吉と和睦が調い、国は静かだとはいっても、世間がどうなっていくかはまだ安心できない時に、宍戸に恨みを含ませるのは大事です。なんとか跡の残らないようにと思案したところ、さきに秀吉への人質として、能良源五郎、金山孫市の二人を差し上げることになっていましたが、軽い身分の者たちなのでどうかと考え、四郎元綱を小早川と名乗らせて差し上げました。元服のことを秀吉へ申したところ、藤の字と秀の字を賜り、小早川藤四郎秀包と名乗りました。これを良い口実だと思い、輝元に言いました。秀包は人質として上方におりますが、これを隆景の証人のように秀吉も思っています。とにかく秀吉をよく取り扱われなくては大事ですから、輝元様の人質として差し出されなくてはならないことでございます。軽々しい者どもを差し上げては、かえって外聞もどうかと思われますので、吉内を差し上げるのがよろしいでしょう。輝元は、どうかよいように取り計らってくださいと申したのを、妻が聞いてことのほか悲嘆し、なんとかして吉内が上らないようにと、諸寺諸社へ立願しました。厳島の百八十間の回廊に、一間に一つずつ金灯籠を吊らせ、毎夜灯明をつけたのも、この立願の時だったということです。
解説

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