名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 敵に応じて変わる
○高松の役、敵は八萬、味方は四萬、殊に近日信長自身出張あるべき由聞えし故、總軍何となく、浮き立ちて見えけるに、元春、元長少しも騷ぐ體なく、悠寬として居たり。隆景諸人の騷ぐ由を聞き、元春父子の樣子を見て來れとて、密に人を遣はせしに、歸て申樣、元春公には湯の某に謠はせ、何の用心し給ふ體もなく、打解けて御座候と告ぐ。之を傳へ聞き、小早川の陣中も、下々に至るまで、靜まりたりしとぞ。 ○初め毛利織田の和睦破れしより、元春、隆景の議合はざること儘あり。元春云々の思惟なりと言遣りければ、隆景聞て、元春には若武者か、又は五百三百の侍大將抔の言はん樣に、動もすれば叶はざれば討死するまでよ、此所をば去らじ、彼所へ押入らんとのみ言はる。大敵の秀吉に鋒を爭はんを、左樣に短慮に勇のみを專にしては、大敗に及びなんず。尼子勝久抔にこそ、左の如くは心得べけれと言ふ。元春聞て又心に應ぜず。隆景武道に心得ずも承はるもの哉、何條勝久如きの小敵と、一同の觀をば爲すべき、勝久等の小敵には、先づ自ら負けざる工夫をして、身を縮めて、戰を爲せば、彼小敵なるが故、次第に威衰へて、終に敗北するものなり、小敵をば恐るべきなり、偖又信長を敵として、秀吉と矛盾に及ぶには、彼は大敵强敵、殊に秀吉は智勇兼備せし者なれば、敵に弱氣付くと見ては、只一時に攻破り、其足を止めず、三箇國も五箇國も、直に押入る樣なる弓執なり、去る故に、父元就、陶晴賢を巖島に於て討亡し、偖一兩年を置きて後、山口へ入り給たるを聞て、元就の弓箭も古風なり、吾ならましかば、陶を討て、其勢に乘り、直に山口へ攻入るべし、然らば、大内義長は、其年に亡ぶべきに、遠慮過たる弓箭の執樣なりと批判せしと聞く。斯る大不敵の秀吉なれば、味方少しも弱氣を見せば、威に任せ、大軍を以て卽時に押破るべし、斯る大將の然も大軍なるをば、吾勇を專として、重さに掛り、彼が氣を奪ひ、動もすれば十死一生の戰を決せん體を示してこそ、宜しかるべけれ、其を小敵と一般の思ひを爲し、危き戰を愼み、身を大事とのみ心得たらんには、敵に威を奪はれ、味方の氣後れて、終に刄に血ぬらさずして大敗するものなり、大敵を見ては恐れず勇みたるが善きなり。父尼子を攻給はんとて、出雲へ押入り給ひし時は、戰を後にして、謀を先にし、陣城を築て、身の全き行を爲し給ふ。
新字:○高松の役、敵は八万、味方は四万、殊に近日信長自身出張あるべき由聞えし故、総軍何となく、浮き立ちて見えけるに、元春、元長少しも騷ぐ体なく、悠寛として居たり。隆景諸人の騷ぐ由を聞き、元春父子の様子を見て来れとて、密に人を遣はせしに、帰て申様、元春公には湯の某に謡はせ、何の用心し給ふ体もなく、打解けて御座候と告ぐ。之を伝へ聞き、小早川の陣中も、下々に至るまで、静まりたりしとぞ。 ○初め毛利織田の和睦破れしより、元春、隆景の議合はざること儘あり。元春云々の思惟なりと言遣りければ、隆景聞て、元春には若武者か、又は五百三百の侍大将抔の言はん様に、動もすれば叶はざれば討死するまでよ、此所をば去らじ、彼所へ押入らんとのみ言はる。大敵の秀吉に鋒を争はんを、左様に短慮に勇のみを専にしては、大敗に及びなんず。尼子勝久抔にこそ、左の如くは心得べけれと言ふ。元春聞て又心に応ぜず。隆景武道に心得ずも承はるもの哉、何条勝久如きの小敵と、一同の観をば為すべき、勝久等の小敵には、先づ自ら負けざる工夫をして、身を縮めて、戦を為せば、彼小敵なるが故、次第に威衰へて、終に敗北するものなり、小敵をば恐るべきなり、偖又信長を敵として、秀吉と矛盾に及ぶには、彼は大敵強敵、殊に秀吉は智勇兼備せし者なれば、敵に弱気付くと見ては、只一時に攻破り、其足を止めず、三箇国も五箇国も、直に押入る様なる弓執なり、去る故に、父元就、陶晴賢を巖島に於て討亡し、偖一両年を置きて後、山口へ入り給たるを聞て、元就の弓箭も古風なり、吾ならましかば、陶を討て、其勢に乗り、直に山口へ攻入るべし、然らば、大内義長は、其年に亡ぶべきに、遠慮過たる弓箭の執様なりと批判せしと聞く。斯る大不敵の秀吉なれば、味方少しも弱気を見せば、威に任せ、大軍を以て即時に押破るべし、斯る大将の然も大軍なるをば、吾勇を専として、重さに掛り、彼が気を奪ひ、動もすれば十死一生の戦を決せん体を示してこそ、宜しかるべけれ、其を小敵と一般の思ひを為し、危き戦を慎み、身を大事とのみ心得たらんには、敵に威を奪はれ、味方の気後れて、終に刄に血ぬらさずして大敗するものなり、大敵を見ては恐れず勇みたるが善きなり。父尼子を攻給はんとて、出雲へ押入り給ひし時は、戦を後にして、謀を先にし、陣城を築て、身の全き行を為し給ふ。
書き下し
○高松の役、敵は八萬、味方は四萬、殊に近日信長自身出張あるべき由聞えし故、總軍何となく、浮き立ちて見えけるに、元春、元長少しも騷ぐ體なく、悠寬として居たり。隆景諸人の騷ぐ由を聞き、元春父子の樣子を見て來れとて、密に人を遣はせしに、歸て申樣、元春公には湯の某に謠はせ、何の用心し給ふ體もなく、打解けて御座候と告ぐ。之を傳へ聞き、小早川の陣中も、下々に至るまで、靜まりたりしとぞ。 ○初め毛利織田の和睦破れしより、元春、隆景の議合はざること儘あり。元春云々の思惟なりと言遣りければ、隆景聞て、元春には若武者か、又は五百三百の侍大將抔の言はん樣に、動もすれば叶はざれば討死するまでよ、此所をば去らじ、彼所へ押入らんとのみ言はる。大敵の秀吉に鋒を爭はんを、左樣に短慮に勇のみを專にしては、大敗に及びなんず。尼子勝久抔にこそ、左の如くは心得べけれと言ふ。元春聞て又心に應ぜず。隆景武道に心得ずも承はるもの哉、何條勝久如きの小敵と、一同の觀をば爲すべき、勝久等の小敵には、先づ自ら負けざる工夫をして、身を縮めて、戰を爲せば、彼小敵なるが故、次第に威衰へて、終に敗北するものなり、小敵をば恐るべきなり、偖又信長を敵として、秀吉と矛盾に及ぶには、彼は大敵强敵、殊に秀吉は智勇兼備せし者なれば、敵に弱氣付くと見ては、只一時に攻破り、其足を止めず、三箇國も五箇國も、直に押入る樣なる弓執なり、去る故に、父元就、陶晴賢を巖島に於て討亡し、偖一兩年を置きて後、山口へ入り給たるを聞て、元就の弓箭も古風なり、吾ならましかば、陶を討て、其勢に乘り、直に山口へ攻入るべし、然らば、大内義長は、其年に亡ぶべきに、遠慮過たる弓箭の執樣なりと批判せしと聞く。斯る大不敵の秀吉なれば、味方少しも弱氣を見せば、威に任せ、大軍を以て卽時に押破るべし、斯る大將の然も大軍なるをば、吾勇を專として、重さに掛り、彼が氣を奪ひ、動もすれば十死一生の戰を決せん體を示してこそ、宜しかるべけれ、其を小敵と一般の思ひを爲し、危き戰を愼み、身を大事とのみ心得たらんには、敵に威を奪はれ、味方の氣後れて、終に刄に血ぬらさずして大敗するものなり、大敵を見ては恐れず勇みたるが善きなり。父尼子を攻給はんとて、出雲へ押入り給ひし時は、戰を後にして、謀を先にし、陣城を築て、身の全き行を爲し給ふ。
現代語訳
○高松の戦いでは、敵は八万、味方は四万で、とりわけ近日中に信長自身が出陣するという噂が聞こえたため、全軍がなんとなく浮き足立って見えました。しかし元春と元長は少しも騒ぐ様子がなく、ゆったり構えていました。隆景は人々が騒ぐと聞き、元春父子の様子を見てこいと言って、ひそかに人を遣わしました。戻ってきて言うには、元春公は湯の某に謡をうたわせ、何の用心をする様子もなく、うちくつろいでおられますと告げました。これを伝え聞いて、小早川の陣中も、下々に至るまで静まったということです。 ○はじめ毛利と織田の和睦が破れてから、元春と隆景の議論が合わないことがたびたびありました。元春がこう考えていると言い送ってきたので、隆景は聞いて言いました。元春殿は若武者か、五百三百の侍大将などが言うようなことを言われる。ともすれば、かなわなければ討死するまでだ、ここを去らない、あそこへ押し入ろうとばかり言われる。大敵の秀吉と鋒を争うのに、そのように短慮に勇ばかりを専らにしては、大敗に及ぶでしょう。尼子勝久などにこそ、そのように心得るべきです。元春はこれを聞いて、またも心に応じませんでした。隆景は武道を心得ないことを仰るものだ、どうして勝久ごとき小敵と同じに見るべきか。勝久らの小敵には、まず自分から負けない工夫をして、身を縮めて戦えば、あの小敵はその小ささゆえに、しだいに威が衰えて、ついには敗北するものだ。小敵をこそ恐れるべきである。さて、信長を敵として、秀吉と矛を交えるのは、彼は大敵強敵、とくに秀吉は智勇兼備の者だから、敵に弱気がつくと見れば、ただ一時に攻め破り、その足を止めず、三か国も五か国も直ちに押し入るような弓取りである。だから父の元就が、陶晴賢を厳島で討ち亡ぼし、さて一、二年置いて後に山口へ入られたと聞いて、元就の戦い方も古風だ、自分ならば陶を討って、その勢いに乗り、直ちに山口へ攻め入るだろう、そうすれば大内義長はその年に亡びたはずで、遠慮の過ぎた戦いの取り方だと批判したと聞く。このような大不敵の秀吉であるから、味方が少しでも弱気を見せれば、威に任せ大軍で即座に押し破るだろう。そのような大将の、しかも大軍に対しては、わが勇を専らにして重さに掛かり、彼の気を奪い、ともすれば十死一生の戦いを決する構えを示してこそよいのだ。それを小敵と同じ思いで、危うい戦いを慎み、身を大事とばかり心得ては、敵に威を奪われ、味方の気は後れて、ついには刃に血を塗らずして大敗するものだ。大敵を見ては恐れず勇むのがよいのだ。父が尼子を攻めようとして出雲へ押し入られたときは、戦を後にして謀を先にし、陣城を築いて、身の安全を図る行いをなされた。
解説

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