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駿台雑話 / 士の節義一

ある時の會に、古今節義の事に及びけるに、翁いひけるは、孔子季路冉有の二子を父と君とを弑するには不從と仰られて候、少し志あるさはの人の、君父を弑するに同意する事あるべきや、二子は孔門の高弟にあらずや、それにかく仰らるゝ事たゞ季氏が不臣をいましめ給ふといふばかりにはあらず、是はいはれある事にて候、たゞ今刀を取て君父を殺すものありて、我に同意せよといはむには、誰か從ひ申べきにて候、然るに時移り勢變じて、君父たる人を殺しても、其跡あらはれず、人もさしてとがめぬやうに成行時は、己が利害にひかれて、覺悟を失ふものにて候、揚雄は王莽が平帝を弑せしに仕へて、反て莽が功德を頌し、沈約は蕭衍をすゝめて、和帝を弑し、その謀臣となる、さては明の靖難の時にて見給へ、燕王は建文帝を殺せしかども、在朝の名臣蹇義、夏原吉、楊溥、楊榮を始とし、いづれも燕王を奉じて是に臣とし仕へざるはなし、其外歷代不學無識の徒は論ずるにたらず、是等は皆一代の文儒として、世に名をあらはす人ぞかし、是にてしるべし、季路冉有を弑父與君には不從との給ふは、二子大義においては、見る事明かにして、慥に覺悟のたがはぬ所を、聖人見屆給てかくの給ひけることを、實に容易の事とはいふべからず、我朝にても、源義朝が父爲義を殺すにて見給へ、其身も大惡としらぬにてはなけれども、君命はおもし、

新字:ある時の会に、古今節義の事に及びけるに、翁いひけるは、孔子季路冉有の二子を父と君とを弑するには不従と仰られて候、少し志あるさはの人の、君父を弑するに同意する事あるべきや、二子は孔門の高弟にあらずや、それにかく仰らるゝ事たゞ季氏が不臣をいましめ給ふといふばかりにはあらず、是はいはれある事にて候、たゞ今刀を取て君父を殺すものありて、我に同意せよといはむには、誰か従ひ申べきにて候、然るに時移り勢変じて、君父たる人を殺しても、其跡あらはれず、人もさしてとがめぬやうに成行時は、己が利害にひかれて、覚悟を失ふものにて候、揚雄は王莽が平帝を弑せしに仕へて、反て莽が功徳を頌し、沈約は蕭衍をすゝめて、和帝を弑し、その謀臣となる、さては明の靖難の時にて見給へ、燕王は建文帝を殺せしかども、在朝の名臣蹇義、夏原吉、楊溥、楊栄を始とし、いづれも燕王を奉じて是に臣とし仕へざるはなし、其外歴代不学無識の徒は論ずるにたらず、是等は皆一代の文儒として、世に名をあらはす人ぞかし、是にてしるべし、季路冉有を弑父与君には不従との給ふは、二子大義においては、見る事明かにして、慥に覚悟のたがはぬ所を、聖人見届給てかくの給ひけることを、実に容易の事とはいふべからず、我朝にても、源義朝が父為義を殺すにて見給へ、其身も大悪としらぬにてはなけれども、君命はおもし、

書き下し

ある時の會に、古今節義の事に及びけるに、翁いひけるは、孔子季路冉有の二子を父と君とを弑するには不從と仰られて候、少し志あるさはの人の、君父を弑するに同意する事あるべきや、二子は孔門の高弟にあらずや、それにかく仰らるゝ事たゞ季氏が不臣をいましめ給ふといふばかりにはあらず、是はいはれある事にて候、たゞ今刀を取て君父を殺すものありて、我に同意せよといはむには、誰か從ひ申べきにて候、然るに時移り勢變じて、君父たる人を殺しても、其跡あらはれず、人もさしてとがめぬやうに成行時は、己が利害にひかれて、覺悟を失ふものにて候、揚雄は王莽が平帝を弑せしに仕へて、反て莽が功德を頌し、沈約は蕭衍をすゝめて、和帝を弑し、その謀臣となる、さては明の靖難の時にて見給へ、燕王は建文帝を殺せしかども、在朝の名臣蹇義、夏原吉、楊溥、楊榮を始とし、いづれも燕王を奉じて是に臣とし仕へざるはなし、其外歷代不學無識の徒は論ずるにたらず、是等は皆一代の文儒として、世に名をあらはす人ぞかし、是にてしるべし、季路冉有を弑父與君には不從との給ふは、二子大義においては、見る事明かにして、慥に覺悟のたがはぬ所を、聖人見屆給てかくの給ひけることを、實に容易の事とはいふべからず、我朝にても、源義朝が父爲義を殺すにて見給へ、其身も大惡としらぬにてはなけれども、君命はおもし、

現代語訳

ある時の会合で、古今の節義のことに話が及びました。私は言いました。孔子は季路・冉有の二人を、「父と君とを弑することには従わない」とおっしゃっています。少しでも志のある人が、君や父を弑することに同意することがありましょうか。二人は孔門の高弟ではありませんか。それなのに、こうおっしゃったのは、ただ季氏の不臣を戒めたというだけではありません。これにはいわれがあることです。いま、刀を取って君や父を殺す者がいて、私に同意せよと言えば、誰が従いましょうか。ところが、時が移り勢いが変わって、君や父たる人を殺しても、その跡が現れず、人もさして咎めないようになってゆくときには、自分の利害に引かれて、覚悟を失うものです。揚雄は、王莽が平帝を弑したのに仕えて、かえって莽の功徳をたたえ、沈約は蕭衍に勧めて和帝を弑させ、その謀臣となりました。さらに明の靖難のときで見てごらんなさい。燕王は建文帝を殺しましたが、朝廷にいた名臣の蹇義、夏原吉、楊溥、楊栄をはじめとして、いずれも燕王を奉じて、臣として仕えない者はありません。そのほか歴代の不学無識の徒は論ずるに足りません。これらは皆、一代の文儒として世に名を現した人たちです。これで知れます。季路・冉有に「父と君とを弑するには従わない」とおっしゃったのは、二人が大義においては見るところが明らかで、覚悟がたがわないことを、聖人が見届けてこうおっしゃったのであって、実に容易なことと言ってはなりません。わが国でも、源義朝が父の為義を殺したことで見てごらんなさい。その身も大悪と知らないわけではありませんでしたが、君命は重く、(この段はここで切れ、次の段に続きます。)

解説

士の節義の冒頭で、孔子が季路・冉有に述べた「弑父与君には不従」を、翁が掘り下げます。刀を持って君父を殺す者に同意する人はいないが、時が移り、咎めが薄くなると、利害に引かれて覚悟を失うと述べます。揚雄、沈約、明の靖難の際の名臣たちを、学問がありながら節を失った例として挙げます。これに対し二子は大義を見て違わなかった、と孔子が見届けたのだと読みます。末尾は源義朝が父為義を殺した話に入りかけて切れ、次の段に続きます。周囲が不正に傾いたとき、自分だけが従わずにいられるか。その問いは、不祥事に直面する現代の管理職にもそのまま向けられます。

この章句が説くこと

節義大義弑逆覚悟孔子駿台雑話

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