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名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 一人でも赴く

偖こそ京童が圍碁將碁の戲言にも、無二に思ひ切たる覺悟するをば、吉川が橋を引きたる所業を爲せりと言傳へけり。元春父子も、十一月朔日に開陣せり。 ○十年四月、秀吉八萬騎に將として、備中高松を水攻にす。隆景急なりと聞き、援を元春に請ふ。元春雲、伯、石の勢を催しけるに、山陰の將士等皆曰く、先年備中の國手の城を攻られける時、北方の軍勢の戮力を受けられ、又上月の役、元春公を引出し給ひつれども、馬野山の役、富田までは出られながら、馬野山へは越されず、唯幾度も事急に難儀なる所へは、山陰の者共を引寄せ、敵の餌に與られ、又馬野山如きの十死一生の所へは、危きを愼みて、自らは出給はざることこそ心得ね、然らば今度高松へ御出張に付ては、面々等は御免を蒙り候へなんず、彼地へは幸に請口なれば、隆景御一身御出張候て、秀吉と對陣し給ふべし、某等は又元春公に供奉し、因幡へ打て出で、敵城を攻取り、鳥取の鬱憤を晴し候べしと。元春聞て各ゝ申さるゝこと、尤もなれども、隆景、元春を離れて、爭でか一身の力を以て全き謀を成し候べき、馬野山へ出張なかりしも、定めて其仔細もこそ候はめ、去れば兄弟の情背き難きのみならず、毛利家の爲めなるをや。善し人々同心なくば、吾只一人備中へ馳上り、安危を隆景と共にすべしと言ければ、將士等一言の義に服して、皆罪を謝し、從はんことを請ふ。爰に於て、一萬七千騎を卒ゐて、南隆景に會せり。山陰は元春管國、山陽は隆景の管國なるを以て、山陰の士言ふこと然り。

新字:偖こそ京童が囲碁将碁の戯言にも、無二に思ひ切たる覚悟するをば、吉川が橋を引きたる所業を為せりと言伝へけり。元春父子も、十一月朔日に開陣せり。 ○十年四月、秀吉八万騎に将として、備中高松を水攻にす。隆景急なりと聞き、援を元春に請ふ。元春雲、伯、石の勢を催しけるに、山陰の将士等皆曰く、先年備中の国手の城を攻られける時、北方の軍勢の戮力を受けられ、又上月の役、元春公を引出し給ひつれども、馬野山の役、富田までは出られながら、馬野山へは越されず、唯幾度も事急に難儀なる所へは、山陰の者共を引寄せ、敵の餌に与られ、又馬野山如きの十死一生の所へは、危きを慎みて、自らは出給はざることこそ心得ね、然らば今度高松へ御出張に付ては、面々等は御免を蒙り候へなんず、彼地へは幸に請口なれば、隆景御一身御出張候て、秀吉と対陣し給ふべし、某等は又元春公に供奉し、因幡へ打て出で、敵城を攻取り、鳥取の鬱憤を晴し候べしと。元春聞て各ゝ申さるゝこと、尤もなれども、隆景、元春を離れて、争でか一身の力を以て全き謀を成し候べき、馬野山へ出張なかりしも、定めて其仔細もこそ候はめ、去れば兄弟の情背き難きのみならず、毛利家の為めなるをや。善し人々同心なくば、吾只一人備中へ馳上り、安危を隆景と共にすべしと言ければ、将士等一言の義に服して、皆罪を謝し、従はんことを請ふ。爰に於て、一万七千騎を卒ゐて、南隆景に会せり。山陰は元春管国、山陽は隆景の管国なるを以て、山陰の士言ふこと然り。

書き下し

偖こそ京童が圍碁將碁の戲言にも、無二に思ひ切たる覺悟するをば、吉川が橋を引きたる所業を爲せりと言傳へけり。元春父子も、十一月朔日に開陣せり。 ○十年四月、秀吉八萬騎に將として、備中高松を水攻にす。隆景急なりと聞き、援を元春に請ふ。元春雲、伯、石の勢を催しけるに、山陰の將士等皆曰く、先年備中の國手の城を攻られける時、北方の軍勢の戮力を受けられ、又上月の役、元春公を引出し給ひつれども、馬野山の役、富田までは出られながら、馬野山へは越されず、唯幾度も事急に難儀なる所へは、山陰の者共を引寄せ、敵の餌に與られ、又馬野山如きの十死一生の所へは、危きを愼みて、自らは出給はざることこそ心得ね、然らば今度高松へ御出張に付ては、面々等は御免を蒙り候へなんず、彼地へは幸に請口なれば、隆景御一身御出張候て、秀吉と對陣し給ふべし、某等は又元春公に供奉し、因幡へ打て出で、敵城を攻取り、鳥取の鬱憤を晴し候べしと。元春聞て各ゝ申さるゝこと、尤もなれども、隆景、元春を離れて、爭でか一身の力を以て全き謀を成し候べき、馬野山へ出張なかりしも、定めて其仔細もこそ候はめ、去れば兄弟の情背き難きのみならず、毛利家の爲めなるをや。善し人々同心なくば、吾只一人備中へ馳上り、安危を隆景と共にすべしと言ければ、將士等一言の義に服して、皆罪を謝し、從はんことを請ふ。爰に於て、一萬七千騎を卒ゐて、南隆景に會せり。山陰は元春管國、山陽は隆景の管國なるを以て、山陰の士言ふこと然り。

現代語訳

こうしたことから、京の子供たちが囲碁や将棋の戯れ言にも、一つに思い切った覚悟をすることを、吉川が橋を引いたようなことをした、と言い伝えるようになりました。元春父子も十一月一日に陣を引きました。 ○天正十年四月、秀吉は八万騎の将として、備中高松を水攻めにしました。隆景は急を知って、元春に援軍を求めました。元春は雲、伯、石(出雲・伯耆・石見)の勢を催しましたが、山陰の将士たちは皆こう言いました。先年、備中の国手の城を攻められたときは、北方の軍勢の力を受けられ、また上月の戦いでも元春公を引き出されたのに、馬野山の戦いでは、富田までは出られながら馬野山へは越されなかった。ただ事が急で難儀なときは、山陰の者どもを引き寄せて敵の餌食にされ、馬野山のような十死一生の所には、危ういことを慎んで自らは出られなかった。これは納得できない。それならば、今度高松へ出張されるにあたって、われわれ一同はお許しをいただきたい。かの地は幸い受け口にあたるのだから、隆景様ご自身が出張して秀吉と対陣されればよい。われわれは元春公に従って因幡へ打って出て、敵の城を攻め取り、鳥取の鬱憤を晴らしましょうと。元春は聞いて言いました。皆の申すことはもっともだが、隆景は元春と離れて、どうして一身の力で全き策を成し遂げられようか。馬野山へ出張しなかったのも、きっと仔細があってのことだ。そうであれば、兄弟の情に背けないだけでなく、毛利家のためでもある。よし、人々が同意しないなら、自分ひとりで備中へ馳せ上り、安危を隆景と共にしよう。将士たちは、この一言の義に服し、皆が罪を詫びて従うことを願い出ました。そこで一万七千騎を率いて、南へ向かい隆景に会いました。山陰は元春の管国、山陽は隆景の管国だったので、山陰の士がそう言ったのです。

解説

高松の戦いの前に、山陰の将士が自領を守る立場から、元春の出陣に異を唱えた場面です。山陰は元春の担当、山陽は隆景の担当という分担があり、家臣の言い分にも理があることを、末尾の一文が補っています。元春は、反発を力で抑えず、弟を助ける理由を毛利家のためと兄弟の情から語り、最後には自分ひとりでも行くと示して将士の心を動かしたと伝わります。組織で担当領域を超えた応援を頼むとき、理屈よりも先に自分が動く覚悟を示すことが、周りを動かす場面があります。逸話の細部は確証が薄いことに注意が要ります。
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この章句が説くこと

吉川元春高松兄弟分担山陰覚悟

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