名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 秀吉が引いた日
杉原彌八郎元盛、三刀屋彈正左衞門久祐、何れも今夜は引くことゝ思ひ、元春の本陣へ人を遣はし、樣子を見せけるに、元春は宿病起りぬと言て、宵より地爐に柴折り燒せ、帶紐解て脊炙り、高鼾して打臥し、諸士共は小鼓擊ち謠ひつれて、安氣なる有樣なり。又元長兄弟は、夫に引替、更る〱隙なく諸陣を巡視せりと言ふ。元盛、久祐之を聞て、大に驚歎せり。元春も竊に人を遣はし、諸營を見せしむるに、杉原彌八郎元盛、同又次郎景盛、兄弟は博奕雙陸し、三刀屋彈正左衞門久祐は、圍碁して居たりしと告ければ、元春、杉原兄弟が二十を越ゆるとも、二つ三つに過ぐべからず、剛柔如何にと思ひしに、父盛重に能く似たりとて、別けて感稱せり。明れば二十八日、敵數千騎にて糧を羽衣石に入る。元春、井上平右衞門、山縣宗右衞門に、鳥銃數百挺相副て出し、敵の一將を打斃す。元長兄弟二千餘人を卒る繼ぎ出づ。大和秀長我が小勢なるを見て、萬餘人を卒る馳合はさんとす。元長自如として靜まり返りて居たり。秀吉之を聞き使を馳せ、本陣の下知を用ひず、忿兵に只うか〱と掛ることやあるとて、急に軍を收めしむ。宮部善祥坊繼潤、元長兄弟の振舞を見て、容易く打勝べからざるを知りし故、今夜夜討せんと言ふ者ありしが、夜討せんよりは、夜討にせられざる、用心し給ふべしと言て、差留めたり。南條元續曰く、元春吾勇に誇り、小勢を以て遠路を來り候こそ、天の興ふる所に候、早く切崩され候へ、吉川父子だに討取り候はゞ、小早川抔は一支も支へず逃亡ぶべく、破竹の勢を以て雲藝までは、靡然として御威光に畏服致すべきこと、當年來春の間を過ぎじと。秀吉笑て答へず。戶摩利、松之崎等の城の靜まり返りて、すはとも言はゞ擊て出んとの形勢を見て、大膽不敵の族なりと言はれけり。二十九日陣拂して姫路へ軍を引返せり。元長兄弟後を慕はんと、進みしかども、元春許さず。
新字:杉原弥八郎元盛、三刀屋弾正左衛門久祐、何れも今夜は引くことゝ思ひ、元春の本陣へ人を遣はし、様子を見せけるに、元春は宿病起りぬと言て、宵より地炉に柴折り焼せ、帯紐解て脊炙り、高鼾して打臥し、諸士共は小鼓撃ち謡ひつれて、安気なる有様なり。又元長兄弟は、夫に引替、更る〱隙なく諸陣を巡視せりと言ふ。元盛、久祐之を聞て、大に驚嘆せり。元春も窃に人を遣はし、諸営を見せしむるに、杉原弥八郎元盛、同又次郎景盛、兄弟は博奕双陸し、三刀屋弾正左衛門久祐は、囲碁して居たりしと告ければ、元春、杉原兄弟が二十を越ゆるとも、二つ三つに過ぐべからず、剛柔如何にと思ひしに、父盛重に能く似たりとて、別けて感称せり。明れば二十八日、敵数千騎にて糧を羽衣石に入る。元春、井上平右衛門、山県宗右衛門に、鳥銃数百挺相副て出し、敵の一将を打斃す。元長兄弟二千余人を卒る継ぎ出づ。大和秀長我が小勢なるを見て、万余人を卒る馳合はさんとす。元長自如として静まり返りて居たり。秀吉之を聞き使を馳せ、本陣の下知を用ひず、忿兵に只うか〱と掛ることやあるとて、急に軍を収めしむ。宮部善祥坊継潤、元長兄弟の振舞を見て、容易く打勝べからざるを知りし故、今夜夜討せんと言ふ者ありしが、夜討せんよりは、夜討にせられざる、用心し給ふべしと言て、差留めたり。南条元続曰く、元春吾勇に誇り、小勢を以て遠路を来り候こそ、天の興ふる所に候、早く切崩され候へ、吉川父子だに討取り候はゞ、小早川抔は一支も支へず逃亡ぶべく、破竹の勢を以て雲芸までは、靡然として御威光に畏服致すべきこと、当年来春の間を過ぎじと。秀吉笑て答へず。戸摩利、松之崎等の城の静まり返りて、すはとも言はゞ撃て出んとの形勢を見て、大胆不敵の族なりと言はれけり。二十九日陣払して姫路へ軍を引返せり。元長兄弟後を慕はんと、進みしかども、元春許さず。
書き下し
杉原彌八郎元盛、三刀屋彈正左衞門久祐、何れも今夜は引くことゝ思ひ、元春の本陣へ人を遣はし、樣子を見せけるに、元春は宿病起りぬと言て、宵より地爐に柴折り燒せ、帶紐解て脊炙り、高鼾して打臥し、諸士共は小鼓擊ち謠ひつれて、安氣なる有樣なり。又元長兄弟は、夫に引替、更る〱隙なく諸陣を巡視せりと言ふ。元盛、久祐之を聞て、大に驚歎せり。元春も竊に人を遣はし、諸營を見せしむるに、杉原彌八郎元盛、同又次郎景盛、兄弟は博奕雙陸し、三刀屋彈正左衞門久祐は、圍碁して居たりしと告ければ、元春、杉原兄弟が二十を越ゆるとも、二つ三つに過ぐべからず、剛柔如何にと思ひしに、父盛重に能く似たりとて、別けて感稱せり。明れば二十八日、敵數千騎にて糧を羽衣石に入る。元春、井上平右衞門、山縣宗右衞門に、鳥銃數百挺相副て出し、敵の一將を打斃す。元長兄弟二千餘人を卒る繼ぎ出づ。大和秀長我が小勢なるを見て、萬餘人を卒る馳合はさんとす。元長自如として靜まり返りて居たり。秀吉之を聞き使を馳せ、本陣の下知を用ひず、忿兵に只うか〱と掛ることやあるとて、急に軍を收めしむ。宮部善祥坊繼潤、元長兄弟の振舞を見て、容易く打勝べからざるを知りし故、今夜夜討せんと言ふ者ありしが、夜討せんよりは、夜討にせられざる、用心し給ふべしと言て、差留めたり。南條元續曰く、元春吾勇に誇り、小勢を以て遠路を來り候こそ、天の興ふる所に候、早く切崩され候へ、吉川父子だに討取り候はゞ、小早川抔は一支も支へず逃亡ぶべく、破竹の勢を以て雲藝までは、靡然として御威光に畏服致すべきこと、當年來春の間を過ぎじと。秀吉笑て答へず。戶摩利、松之崎等の城の靜まり返りて、すはとも言はゞ擊て出んとの形勢を見て、大膽不敵の族なりと言はれけり。二十九日陣拂して姫路へ軍を引返せり。元長兄弟後を慕はんと、進みしかども、元春許さず。
現代語訳
杉原弥八郎元盛と三刀屋弾正左衛門久祐は、どちらも今夜は引き上げるものと思い、元春の本陣へ人を遣わして様子を見させたところ、元春は持病が起こったと言って、宵から地炉で柴を折って焚かせ、帯紐を解いて背中をあぶり、高鼾をかいて寝ており、家来たちは小鼓を打ち謡をうたって、のんきな有様でした。また元長兄弟は、それと打って変わって、休む暇もなく諸陣を巡視していると言います。元盛と久祐はこれを聞いて、大いに驚き感嘆しました。元春もひそかに人を遣わし、諸営の様子を見させたところ、杉原弥八郎元盛と弟の又次郎景盛の兄弟は博打や双六をし、三刀屋弾正左衛門久祐は囲碁をしていたと報告しました。元春は、杉原兄弟は二十歳を越えたといっても、二つ三つを過ぎないだろう、剛柔どうかと思っていたが、父の盛重によく似ていると言って、特に感心しました。明けて二十八日、敵は数千騎で兵糧を羽衣石に入れました。元春は井上平右衛門、山県宗右衛門に鳥銃数百挺を添えて出し、敵の一将を撃ち倒しました。元長兄弟は二千余人を率いて続いて出ました。大和秀長は味方が小勢なのを見て、一万余人を率いて駆け合わせようとしました。元長は平然として静まり返っていました。秀吉はこれを聞き、使いを走らせて、本陣の指図を用いず、怒りの兵でただうかうかと掛かることがあるかと言って、急に軍を収めさせました。宮部善祥坊継潤は、元長兄弟の振る舞いを見て、たやすく打ち勝てないと知っていたので、今夜夜討をしようと言う者がありましたが、夜討をするよりも、夜討をされないように用心なさいと言って押しとどめました。南条元続は言いました。元春が自分の武勇に誇り、小勢で遠路を来たのは、天が与えた好機です。早く切り崩されませ。吉川父子さえ討ち取れば、小早川などは一支えも支えられず逃げ崩れ、破竹の勢いで雲芸(出雲・安芸)までは、なびいて威光に服すでしょう、今年から来春の間を過ぎないでしょうと。秀吉は笑って答えませんでした。戸摩利、松之崎などの城が静まり返って、事あらばいつでも打って出る形勢なのを見て、大胆不敵の連中だと言われました。二十九日、陣を払って姫路へ軍を引き返しました。元長兄弟は後を追おうとして進みましたが、元春は許しませんでした。
解説

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