名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 攻戦は元春に任せよ
○元就曰く、數萬の衆を卒る、機を兩陣の間に決し、戰へば卽ち勝ち、攻れば則ち取り、威を天下に爭ふことは、吾元春に及ばずとありて、攻戰の術は、元春に任ぜられけり。元就終に臨み、輝元に、遺言して曰く、攻戰の道は、大小となく、悉く元春に任すべく、如何なる敵に逢ふとも、危かるべからず、若し元春の意見を用ひずんば、弓箭後れ武威衰ふべしと。 ○元龜二年、尼子勝久、元就が病を聞き、伯耆に入り諸城を拔く。山中幸盛は、末石に在り、四出鈔略す。元就の死を聞くに及びて、勢頗る張れり。爰に於て、元春哭泣して曰く、敵を盡くして以て先考の靈を慰めん、其功德佛に供し、僧に飯するに愈れりと。則ち兵一萬を卒る、末石を伐んと欲し、先づ大山の僧徒を攻ると聲言し、還り末石を攻む。幸盛計窮り、出て降りしが病と伴はり、遂に圍より逸し、美作に走る。元春則ち新山を攻む。城兵潰え、勝久隱岐に奔り、遂に京師に奔る。其兵或は降り或は遁れ、雲伯悉く平ぐ。元春留て富田を鎭せり。
新字:○元就曰く、数万の衆を卒る、機を両陣の間に決し、戦へば即ち勝ち、攻れば則ち取り、威を天下に争ふことは、吾元春に及ばずとありて、攻戦の術は、元春に任ぜられけり。元就終に臨み、輝元に、遺言して曰く、攻戦の道は、大小となく、悉く元春に任すべく、如何なる敵に逢ふとも、危かるべからず、若し元春の意見を用ひずんば、弓箭後れ武威衰ふべしと。 ○元亀二年、尼子勝久、元就が病を聞き、伯耆に入り諸城を抜く。山中幸盛は、末石に在り、四出鈔略す。元就の死を聞くに及びて、勢頗る張れり。爰に於て、元春哭泣して曰く、敵を尽くして以て先考の霊を慰めん、其功徳仏に供し、僧に飯するに愈れりと。則ち兵一万を卒る、末石を伐んと欲し、先づ大山の僧徒を攻ると声言し、還り末石を攻む。幸盛計窮り、出て降りしが病と伴はり、遂に囲より逸し、美作に走る。元春則ち新山を攻む。城兵潰え、勝久隠岐に奔り、遂に京師に奔る。其兵或は降り或は遁れ、雲伯悉く平ぐ。元春留て富田を鎮せり。
書き下し
○元就曰く、數萬の衆を卒る、機を兩陣の間に決し、戰へば卽ち勝ち、攻れば則ち取り、威を天下に爭ふことは、吾元春に及ばずとありて、攻戰の術は、元春に任ぜられけり。元就終に臨み、輝元に、遺言して曰く、攻戰の道は、大小となく、悉く元春に任すべく、如何なる敵に逢ふとも、危かるべからず、若し元春の意見を用ひずんば、弓箭後れ武威衰ふべしと。 ○元龜二年、尼子勝久、元就が病を聞き、伯耆に入り諸城を拔く。山中幸盛は、末石に在り、四出鈔略す。元就の死を聞くに及びて、勢頗る張れり。爰に於て、元春哭泣して曰く、敵を盡くして以て先考の靈を慰めん、其功德佛に供し、僧に飯するに愈れりと。則ち兵一萬を卒る、末石を伐んと欲し、先づ大山の僧徒を攻ると聲言し、還り末石を攻む。幸盛計窮り、出て降りしが病と伴はり、遂に圍より逸し、美作に走る。元春則ち新山を攻む。城兵潰え、勝久隱岐に奔り、遂に京師に奔る。其兵或は降り或は遁れ、雲伯悉く平ぐ。元春留て富田を鎭せり。
現代語訳
○元就は言いました。数万の衆を率い、機を両陣の間に決し、戦えばすなわち勝ち、攻めればすなわち取り、威を天下に争うことでは、私は元春に及ばない、と言って、攻戦の術は元春に任せました。元就は臨終にあたり、輝元に遺言して言いました。攻戦の道は、大小となく、すべて元春に任せよ。どんな敵に逢っても、危うくなることはない。もし元春の意見を用いなければ、弓矢は遅れ、武威は衰えるだろう、と。 ○元亀二年、尼子勝久は元就の病を聞き、伯耆に入って諸城を抜きました。山中幸盛は末石にあって、四方に出て掠め取りました。元就の死を聞くに及んで、勢いはかなり張りました。ここに元春は哭泣して言いました。敵を尽くして亡き父の霊を慰めよう、その功徳は仏に供え、僧に食事を施すよりまさる、と。そこで兵一万を率い、末石を討とうとして、まず大山の僧徒を攻めると声言し、引き返して末石を攻めました。幸盛は計略が尽き、出て降りましたが、病と偽って伴われ、ついに囲みから逃れ、美作に走りました。元春はそこで新山を攻めました。城兵は崩れ、勝久は隠岐に奔り、ついに京師に奔りました。その兵は降る者や逃げる者があり、出雲・伯耆はことごとく平定されました。元春は留まって富田を鎮めました。
解説

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