名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 後継選びと殿の守り
○弘治三年、杉原宮内少輔忠興卒し、嗣ぎなし。元就一族の中其器を撰び、嗣と爲すべしとありければ、隆景聞て、同名左衞門進興勝こそ、可ならめ、武勇の譽あるのみならず、律義第一の者なりと言ふ。元春、同名播磨守盛重こそ、武勇の場數は、興勝には劣るべけれども、天性大機にして、智計人に越えぬれば、一城を守り、百千の司と爲さんには、遙に勝りて覺え候と言ふ。隆景盛重は不敵者にて、人を生きたる虫とも思はず、常に博奕を嗜み、己が剛強に誇り、危き合戰を好めり、一城の主と爲し、數千の兵の命を司らしめんこと、危きことに候と言ふ。元春律義を要として、智少く勇のみある者は、單騎の役にして、大將の器にあらず、數千の將たらん者は、自身の小勇を事とせず、智計人に出たる士にあらずんば、不可ならん、智勇倂せずんば、爭か百千の軍兵をば指麾すべき。盛重若し大機に過ぎて、危きこと之あるに於ては、吾手に付けて制し候はんに、些も過失は候はじと言ける故、元就も之に同じ、盛重をして杉原の家を繼がしめ、元春の手にぞ、付られける。果して盛重、膽略群に超え、智計勇烈、中國に肩を並ぶる者なし。爰に至て、人皆元春の能く人を知るに服せり。 ○永祿十二年、毛利勢立花を陣拂して歸る時、大友の諸將追蹤せんとす。戸次鑑連、其旌旗の整ふるを見て、制止して追はしめず。元春後殿して引揚ぐ。元就其顚末を聞き、例のしたゝまりたる樣體、新田義貞の矢矧の橋を渡りし有樣抔、一般なりと言はれけり。
新字:○弘治三年、杉原宮内少輔忠興卒し、嗣ぎなし。元就一族の中其器を撰び、嗣と為すべしとありければ、隆景聞て、同名左衛門進興勝こそ、可ならめ、武勇の誉あるのみならず、律義第一の者なりと言ふ。元春、同名播磨守盛重こそ、武勇の場数は、興勝には劣るべけれども、天性大機にして、智計人に越えぬれば、一城を守り、百千の司と為さんには、遥に勝りて覚え候と言ふ。隆景盛重は不敵者にて、人を生きたる虫とも思はず、常に博奕を嗜み、己が剛強に誇り、危き合戦を好めり、一城の主と為し、数千の兵の命を司らしめんこと、危きことに候と言ふ。元春律義を要として、智少く勇のみある者は、単騎の役にして、大将の器にあらず、数千の将たらん者は、自身の小勇を事とせず、智計人に出たる士にあらずんば、不可ならん、智勇併せずんば、争か百千の軍兵をば指麾すべき。盛重若し大機に過ぎて、危きこと之あるに於ては、吾手に付けて制し候はんに、些も過失は候はじと言ける故、元就も之に同じ、盛重をして杉原の家を継がしめ、元春の手にぞ、付られける。果して盛重、胆略群に超え、智計勇烈、中国に肩を並ぶる者なし。爰に至て、人皆元春の能く人を知るに服せり。 ○永禄十二年、毛利勢立花を陣払して帰る時、大友の諸将追蹤せんとす。戸次鑑連、其旌旗の整ふるを見て、制止して追はしめず。元春後殿して引揚ぐ。元就其顛末を聞き、例のしたゝまりたる様体、新田義貞の矢矧の橋を渡りし有様抔、一般なりと言はれけり。
書き下し
○弘治三年、杉原宮内少輔忠興卒し、嗣ぎなし。元就一族の中其器を撰び、嗣と爲すべしとありければ、隆景聞て、同名左衞門進興勝こそ、可ならめ、武勇の譽あるのみならず、律義第一の者なりと言ふ。元春、同名播磨守盛重こそ、武勇の場數は、興勝には劣るべけれども、天性大機にして、智計人に越えぬれば、一城を守り、百千の司と爲さんには、遙に勝りて覺え候と言ふ。隆景盛重は不敵者にて、人を生きたる虫とも思はず、常に博奕を嗜み、己が剛強に誇り、危き合戰を好めり、一城の主と爲し、數千の兵の命を司らしめんこと、危きことに候と言ふ。元春律義を要として、智少く勇のみある者は、單騎の役にして、大將の器にあらず、數千の將たらん者は、自身の小勇を事とせず、智計人に出たる士にあらずんば、不可ならん、智勇倂せずんば、爭か百千の軍兵をば指麾すべき。盛重若し大機に過ぎて、危きこと之あるに於ては、吾手に付けて制し候はんに、些も過失は候はじと言ける故、元就も之に同じ、盛重をして杉原の家を繼がしめ、元春の手にぞ、付られける。果して盛重、膽略群に超え、智計勇烈、中國に肩を並ぶる者なし。爰に至て、人皆元春の能く人を知るに服せり。 ○永祿十二年、毛利勢立花を陣拂して歸る時、大友の諸將追蹤せんとす。戸次鑑連、其旌旗の整ふるを見て、制止して追はしめず。元春後殿して引揚ぐ。元就其顚末を聞き、例のしたゝまりたる樣體、新田義貞の矢矧の橋を渡りし有樣抔、一般なりと言はれけり。
現代語訳
○弘治三年、杉原宮内少輔忠興が亡くなり、跡継ぎがいませんでした。元就は、一族の中でその器の者を選んで跡継ぎにしようと言ったので、隆景はこれを聞いて、同名の左衛門進興勝こそふさわしいでしょう、武勇の誉れがあるばかりでなく、律義第一の者です、と言いました。元春は、同名の播磨守盛重こそふさわしい、武勇の場数は興勝には劣るでしょうが、生まれつき大きな機があり、智計は人に優れているので、一城を守り、百千の長とするには、はるかに勝ると思います、と言いました。隆景は、盛重は不敵な者で、人を生きた虫とも思わず、いつも博打を好み、己の剛強に驕り、危ない合戦を好みます。一城の主とし、数千の兵の命を預からせるのは、危ういことです、と言いました。元春は、律義を要とするといって、智が少なく勇ばかりある者は、単騎の役で、大将の器ではありません。数千の将たる者は、自身の小勇を事とせず、智計が人に優れた士でなければ不可でしょう。智勇を兼ねなければ、どうして百千の軍兵を指揮できましょうか。盛重がもし大機に過ぎて、危ういことがあるなら、私の手に付けて制しますので、少しの過失もありますまい、と言ったので、元就もこれに同意し、盛重を杉原の家に継がせ、元春の手に付けました。果たして盛重は、胆力と謀略が群を抜き、智計・勇烈ともに中国に肩を並べる者がありませんでした。ここに至って、人々はみな元春がよく人を知ることに服しました。 ○永禄十二年、毛利勢が立花の陣を払って帰るとき、大友の諸将は追撃しようとしました。戸次鑑連は、その旌旗の整っているのを見て、制止して追わせませんでした。元春が殿を務めて引き揚げました。元就はその顛末を聞き、いつものように整った様子は、新田義貞が矢矧の橋を渡ったありさまなどと同じだと言いました。
解説

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