名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 敵将が羨んだ父子
○二十一年、泉の戰の後、尼子國久子誠久に語て曰く、元春二十歳前後の若者なれば、剛強一偏にして、戰を先にし、謀を後にすべき間、欺くに易かるべしと思ひつるに、合戰の懸引、備の立樣、西國に肩を比ぶる者なし、汝等も能く見置て、敵ながらも元春の手段を學ぶべし、元就は子まで能く生みたる果報、目出度大將なり。弓箭子孫に至て、衰へざるを弓箭の武運とす、大内義興は、吾身一代の武運は、獨歩したれども、子義隆に至り、文にもあらず、武にもあらず、之を思へば、元就弓箭執て、武運に叶ひたることは、義興に勝りたり。弓執の子を持たば、元就にあやからま欲しきこととなりと羨みたり。
新字:○二十一年、泉の戦の後、尼子国久子誠久に語て曰く、元春二十歳前後の若者なれば、剛強一偏にして、戦を先にし、謀を後にすべき間、欺くに易かるべしと思ひつるに、合戦の懸引、備の立様、西国に肩を比ぶる者なし、汝等も能く見置て、敵ながらも元春の手段を学ぶべし、元就は子まで能く生みたる果報、目出度大将なり。弓箭子孫に至て、衰へざるを弓箭の武運とす、大内義興は、吾身一代の武運は、独歩したれども、子義隆に至り、文にもあらず、武にもあらず、之を思へば、元就弓箭執て、武運に叶ひたることは、義興に勝りたり。弓執の子を持たば、元就にあやからま欲しきこととなりと羨みたり。
書き下し
○二十一年、泉の戰の後、尼子國久子誠久に語て曰く、元春二十歳前後の若者なれば、剛強一偏にして、戰を先にし、謀を後にすべき間、欺くに易かるべしと思ひつるに、合戰の懸引、備の立樣、西國に肩を比ぶる者なし、汝等も能く見置て、敵ながらも元春の手段を學ぶべし、元就は子まで能く生みたる果報、目出度大將なり。弓箭子孫に至て、衰へざるを弓箭の武運とす、大内義興は、吾身一代の武運は、獨歩したれども、子義隆に至り、文にもあらず、武にもあらず、之を思へば、元就弓箭執て、武運に叶ひたることは、義興に勝りたり。弓執の子を持たば、元就にあやからま欲しきこととなりと羨みたり。
現代語訳
○二十一年、泉の戦いのあと、尼子国久が子の誠久に語って言いました。元春は二十歳前後の若者であるから、剛強一辺倒で、戦を先にして謀を後にするだろうから、欺くのは易しいと思っていたが、合戦の駆け引きや備えの立て方は、西国に肩を並べる者がない。お前たちもよく見ておいて、敵ながらも元春の手段を学べ。元就は子までよく生んだ果報の、めでたい大将だ。弓矢が子孫に至って衰えないことを、弓矢の武運とする。大内義興は、自分一代の武運は並ぶ者がなかったが、子の義隆に至っては、文にもあらず、武にもあらずだ。これを思えば、元就が弓矢を執って武運にかなったことは、義興に勝っている。弓取りの子を持つなら、元就にあやかりたいことだ、と羨みました。
解説

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