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名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 醜女を妻に望む

○元春、年頃にも成りければ、元就兒玉就忠を召て、元春が妻のこと、誰が娘然るべきやと思案を廻らすに、指當りてなし。汝先づ元春の内意を聞き參れと申含めければ、就忠頓て元春の方に來て斯くと申す。元春吾未だ妻に望みなし、兎にも角にも、父上の仰にこそ從はめ。去りながら吾心に任すべしとの御内意を承はる上は、胸裏を殘すべきにあらず、吾が望む所は、熊谷兵庫助信直の嫡女なりと言ふ。就忠聞て、仰の趣、元就公へ申上べく候、去ながら信直の嫡女は、世に又なき醜女なりと承はり及び候、若し容色と聞召し及ばれて、遠く劣りなば、御後悔あるべきかと、申ければ、元春莞爾として、吾彼が容貌美麗なると聞きて望む樣に思ひつらんこそ、就忠が心も慚しけれ。今吾信直が娘を望むは、全く姿色あると聞きて申すにあらず、醜と聞きしを以てなり、何にとなれば、信直が姿甚だ醜ければ、人之を娶らず、父の歎き、又如何計ぞや、然るに今吾之を娶らば、信直必ず吾志に感ぜば、爭でか身命を拋たざらん。今中國に信直に勝れる侍大將なし。吾之を伴ひて、父の先陣せば、如何なる強敵堅陣たりとも、などか挫かではあるべき、然らば信直無二の忠を勵みなば、毛利の弓箭日を追て盛なるべきこと、掌を指して、覺えたり。是を思へば、醜婦を娶んこと、父に對して孝と成り、又身を立べき基とも成るべし、吾何ぞ色を好み、情に耽りて、婦女の擇をば爲すべきやと言ければ、就忠愼服し、歸て元就に斯くと告ぐ。元就大に喜び、此一言毛利、吉川兩家の弓箭盛りに成るべき前表なりと言て、頓て信直へ嫁娶の儀を申入れければ、信直斜めならず喜びて、婚姻の儀をぞ執行ひける。果して信直命を惜まず戰功を勵みける故、毛利の弓箭、年に月に盛んに成にけり。

新字:○元春、年頃にも成りければ、元就児玉就忠を召て、元春が妻のこと、誰が娘然るべきやと思案を廻らすに、指当りてなし。汝先づ元春の内意を聞き参れと申含めければ、就忠頓て元春の方に来て斯くと申す。元春吾未だ妻に望みなし、兎にも角にも、父上の仰にこそ従はめ。去りながら吾心に任すべしとの御内意を承はる上は、胸裏を残すべきにあらず、吾が望む所は、熊谷兵庫助信直の嫡女なりと言ふ。就忠聞て、仰の趣、元就公へ申上べく候、去ながら信直の嫡女は、世に又なき醜女なりと承はり及び候、若し容色と聞召し及ばれて、遠く劣りなば、御後悔あるべきかと、申ければ、元春莞爾として、吾彼が容貌美麗なると聞きて望む様に思ひつらんこそ、就忠が心も慚しけれ。今吾信直が娘を望むは、全く姿色あると聞きて申すにあらず、醜と聞きしを以てなり、何にとなれば、信直が姿甚だ醜ければ、人之を娶らず、父の嘆き、又如何計ぞや、然るに今吾之を娶らば、信直必ず吾志に感ぜば、争でか身命を抛たざらん。今中国に信直に勝れる侍大将なし。吾之を伴ひて、父の先陣せば、如何なる強敵堅陣たりとも、などか挫かではあるべき、然らば信直無二の忠を励みなば、毛利の弓箭日を追て盛なるべきこと、掌を指して、覚えたり。是を思へば、醜婦を娶んこと、父に対して孝と成り、又身を立べき基とも成るべし、吾何ぞ色を好み、情に耽りて、婦女の択をば為すべきやと言ければ、就忠慎服し、帰て元就に斯くと告ぐ。元就大に喜び、此一言毛利、吉川両家の弓箭盛りに成るべき前表なりと言て、頓て信直へ嫁娶の儀を申入れければ、信直斜めならず喜びて、婚姻の儀をぞ執行ひける。果して信直命を惜まず戦功を励みける故、毛利の弓箭、年に月に盛んに成にけり。

書き下し

○元春、年頃にも成りければ、元就兒玉就忠を召て、元春が妻のこと、誰が娘然るべきやと思案を廻らすに、指當りてなし。汝先づ元春の内意を聞き參れと申含めければ、就忠頓て元春の方に來て斯くと申す。元春吾未だ妻に望みなし、兎にも角にも、父上の仰にこそ從はめ。去りながら吾心に任すべしとの御内意を承はる上は、胸裏を殘すべきにあらず、吾が望む所は、熊谷兵庫助信直の嫡女なりと言ふ。就忠聞て、仰の趣、元就公へ申上べく候、去ながら信直の嫡女は、世に又なき醜女なりと承はり及び候、若し容色と聞召し及ばれて、遠く劣りなば、御後悔あるべきかと、申ければ、元春莞爾として、吾彼が容貌美麗なると聞きて望む樣に思ひつらんこそ、就忠が心も慚しけれ。今吾信直が娘を望むは、全く姿色あると聞きて申すにあらず、醜と聞きしを以てなり、何にとなれば、信直が姿甚だ醜ければ、人之を娶らず、父の歎き、又如何計ぞや、然るに今吾之を娶らば、信直必ず吾志に感ぜば、爭でか身命を拋たざらん。今中國に信直に勝れる侍大將なし。吾之を伴ひて、父の先陣せば、如何なる強敵堅陣たりとも、などか挫かではあるべき、然らば信直無二の忠を勵みなば、毛利の弓箭日を追て盛なるべきこと、掌を指して、覺えたり。是を思へば、醜婦を娶んこと、父に對して孝と成り、又身を立べき基とも成るべし、吾何ぞ色を好み、情に耽りて、婦女の擇をば爲すべきやと言ければ、就忠愼服し、歸て元就に斯くと告ぐ。元就大に喜び、此一言毛利、吉川兩家の弓箭盛りに成るべき前表なりと言て、頓て信直へ嫁娶の儀を申入れければ、信直斜めならず喜びて、婚姻の儀をぞ執行ひける。果して信直命を惜まず戰功を勵みける故、毛利の弓箭、年に月に盛んに成にけり。

現代語訳

○元春が年ごろになったので、元就は児玉就忠を召し、元春の妻のことを、誰の娘がよいだろうかと思案をめぐらしましたが、さしあたって思いつきません。お前はまず元春の内意を聞いて来いと申し含めたので、就忠はすぐに元春のもとに来て、そのことを申しました。元春は、私にはまだ妻に望みはありません。とにもかくにも父上の仰せに従いましょう。しかしながら、私の心に任せるとの御内意を承る上は、胸の内を残してはならないので、私が望むのは熊谷兵庫助信直の嫡女です、と言いました。就忠は聞いて、仰せの趣は元就公へ申し上げます。ただし信直の嫡女は、世に二人とない醜女と承っております。もし容色を聞いて望まれて、遠く劣る場合は、後悔なさるのではありませんか、と申しました。元春はにっこり笑って、私が彼女の容貌が美しいと聞いて望むように思ったのなら、就忠の心も恥ずかしいことだ。今私が信直の娘を望むのは、全く容姿があると聞いて申すのではなく、醜いと聞いたからだ。なぜなら、信直の娘の姿はたいへん醜いので、人は娶らず、父の歎きはいかばかりだろう。今私がこれを娶れば、信直は必ず私の志に感じ入り、どうして身命を捨てないことがあろうか。今、中国に信直に優る侍大将はいない。私が彼を伴って父の先陣を務めるなら、どんな強敵・堅陣であっても挫けないことがあろうか。そうして信直が無二の忠を励めば、毛利の弓矢が日増しに盛んになることは、掌を指すように分かる。これを思えば、醜婦を娶ることは、父に対して孝となり、また身を立てる基ともなる。私はどうして色を好み、情に耽って、婦女の選びをするだろうか、と言ったので、就忠は慎み服して帰り、元就にこのことを告げました。元就は大いに喜び、この一言は毛利・吉川両家の弓矢が盛んになる前兆だと言って、すぐに信直へ婚姻の申し入れをしたところ、信直は並々でなく喜び、婚姻の儀を執り行いました。果たして信直は命を惜しまず戦功に励んだので、毛利の弓矢は年に月に盛んになったのでした。

解説

元春が結婚相手に、容貌が劣ると噂される家臣の娘を自ら望んだ逸話です。理由は、家臣信直に深く感じ入らせ、忠を引き出すためだと語られます。本文はこれを孝であり立身の基と述べますが、成立当時の、婚姻を家の結びつきと見る通念と、女性を容貌で語る見方が背景にあります。現代の目からは、結婚を人材確保の手段として語る点に違和感があり、そのまま範とするのは適切ではありません。それでも、人の弱みや悩みに先に気づき、見返りを求める以前に、信頼の関係を築いておくことが、組織の結束につながるという点は、読み取れます。
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