弘道館記述義 / 士民・君主と世継ぎから始める教育の順序
又論其本則必始於薰陶人君輔導世子。歷觀西土歷代之制。夏殷之禮。孔子旣歎文獻不足徵。則非後世所得可詳。秦漢以降郡縣之政。亦不可用於封建之治。獨周家之制頗合於今日。而又幸有遺經可徵。則資西土之道者舍之何述焉。周之設敎其制甚備。司徒之屬敎民以德行道藝。興其賢者能者。而師保之職掌門闈之學。咫尺君所告箴諫惡又以德行道藝敎養國子。虞書曰命夔典樂敎冑子。冑子即國子。由是觀之敎之急國子。非獨周家然也。我公之設館倣其意。乃就正廳之奧營一室。扁曰至善。以爲讀書燕息之所。設敎授提擧之府於其傍。凡國之貴遊子弟周旋於其間。又就黌舍別設一寮。凡巨室之適子及左右近臣之少壯者寄宿焉。使之諳艱苦講道藝。以陶冶才德。又設居學及講習之寮。闔國子弟各以序就業不敢怠惰。嗚呼後嗣君繼公之志。克明俊德以止於至善之地。其任政者能酌周家之法。不忽冑子之敎。而其學者則無小無大。立志講學。德行道藝。或賢或能。變其泯然者。以爲文質彬彬之君子。則庶乎不曠勞心治人之職矣。
新字:又論其本則必始於薫陶人君輔導世子。歴観西土歴代之制。夏殷之礼。孔子既嘆文献不足徴。則非後世所得可詳。秦漢以降郡県之政。亦不可用於封建之治。独周家之制頗合於今日。而又幸有遺経可徴。則資西土之道者舎之何述焉。周之設教其制甚備。司徒之属教民以徳行道芸。興其賢者能者。而師保之職掌門闈之学。咫尺君所告箴諫悪又以徳行道芸教養国子。虞書曰命夔典楽教冑子。冑子即国子。由是観之教之急国子。非独周家然也。我公之設館倣其意。乃就正庁之奥営一室。扁曰至善。以為読書燕息之所。設教授提挙之府於其傍。凡国之貴遊子弟周旋於其間。又就黌舎別設一寮。凡巨室之適子及左右近臣之少壮者寄宿焉。使之諳艱苦講道芸。以陶冶才徳。又設居学及講習之寮。闔国子弟各以序就業不敢怠惰。嗚呼後嗣君継公之志。克明俊徳以止於至善之地。其任政者能酌周家之法。不忽冑子之教。而其学者則無小無大。立志講学。徳行道芸。或賢或能。変其泯然者。以為文質彬彬之君子。則庶乎不曠労心治人之職矣。
書き下し
又其の本を論ずれば、則ち必ず人君を薫陶し世子を輔導するに始まる。歴く西土歴代の制を観るに、夏殷の礼は、孔子既に文献足らず徴するに足らずと歎ず、則ち後世の得て詳らかにすべき所に非ず。秦漢以降の郡県の政も亦封建の治に用ふべからず。独り周家の制は頗る今日に合ひ、又幸ひに遺経の徴すべき有り。則ち西土の道に資る者、之を舎きて何をか述べん。周の教へを設くる、其の制甚だ備はる。司徒の属は民に徳行道芸を教へ、其の賢者能者を興す。而して師保の職は門闈の学を掌り、咫尺君の告箴諫悪す。又徳行道芸を以て国子を教養す。虞書に曰く、夔に命じて楽を典り冑子を教へしむと。冑子は即ち国子なり。此に由りて之を観れば、国子を教ふるを急にするは、独り周家のみ然るに非ず。我が公の館を設くる、其の意に倣ふ。乃ち正庁の奥に就きて一室を営み、扁して至善と曰ひ、以て読書燕息の所と為す。教授提挙の府を其の傍に設け、凡そ国の貴遊の子弟其の間に周旋す。又黌舎に就きて別に一寮を設け、凡そ巨室の適子及び左右近臣の少壮者を寄宿せしめ、艱苦を諳んじ道芸を講じ、以て才徳を陶冶せしむ。又居学及び講習の寮を設け、闔国の子弟各序を以て業に就き、敢へて怠惰せず。嗚呼後嗣の君は公の志を継ぎ、克く俊徳を明らかにし以て至善の地に止まれ。其の政を任ずる者は能く周家の法を酌み、冑子の教へを忽にせざれ。而して其の学ぶ者は則ち小と無く大と無く、志を立て学を講じ、徳行道芸、或いは賢に或いは能にして、其の泯然たる者を変じ、以て文質彬彬たる君子と為さば、則ち庶はくは心を労し人を治むるの職を曠しくせざらん。
現代語訳
さらに、その根本を論じるなら、必ず君主を薫陶し、世継ぎの子を補導することから始まります。中国の歴代の制度を見渡すと、夏・殷の礼は、孔子がすでに「文献が足りず、実証できない」と嘆いたとおりで、後世の人が詳しく知ることのできるものではありません。秦・漢以降の郡県制の政治も、封建制の治めには用いることができません。ただ周の制度だけが今日の事情にかなり合っており、しかも幸いに遺された経典で確かめることができます。ですから中国の道に学ぶ者は、これを措いて何を述べることができましょうか。周が教えを設けた制度は、非常によく整っていました。司徒(教育の官)に属する者は、民に徳行と道芸(礼楽射御書数などの技芸)を教え、賢者や能力のある者を引き立てました。そして師保(君主を教え守る役)の職は、宮門の内の学を司り、君のすぐそばで戒め諫め、悪を告げました。また徳行と道芸によって国子(貴族の子弟)を教え養いました。『書経』虞書に「夔に命じて楽を司らせ、冑子を教えさせた」とあります。冑子とは国子のことです。これで見ると、国子の教育を急ぐのは、周の家だけのことではありません。 わが公(斉昭)が館を設けられたのも、この意に倣われたものです。まず正庁(表御殿)の奥に一室を営んで「至善」と名づけ、読書と休息の場とされました。教授や提挙(長官)の役所をその傍らに置き、国中の身分の高い家の子弟がその間を行き来できるようにしました。また学舎に別に一つの寮を設け、名家の嫡子や側近の若い者たちを寄宿させ、苦労に慣れさせ、道芸を学ばせて、才と徳を鍛え育てました。さらに居学と講習の寮を設けて、国中の子弟がそれぞれ順序に従って学業につき、怠けることのないようにしました。ああ、後を継ぐ君主は、公の志を継いで、すぐれた徳をよく明らかにし、至善の境地に留まってください。政治を任される者は、周の法をよく汲み取り、冑子の教育をおろそかにしないでください。学ぶ者は身分の大小を問わず、志を立て学問に励み、徳行と道芸においてある者は賢く、ある者は有能になって、ひっそりと小人に流れる者を変え、「文と質がほどよく調和した君子」(文質彬彬)となるなら、心を労して人を治める職務を空しくせずに済むでしょう。
解説
この章句が説くこと
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『武家家訓集』黒田如水教諭「子の傅をよく撰べ」一子の傅とする士の人物をよく撰ぶべし、其子細は幼少のときより、彼傅日夜付添ひ諸事を育教る故に其子平生の行跡大形傅に似するものなり、外貌のみに非ず、後には心さま迄も傅に似するものなれば大事の儀なり、此故に傅とすべきとおもふ士をば幾重にも吟味してとくと心底を見定、第一思慮有て心正直に僞なく放逸ならずして一筋に忠有ものを付置べし、但其子の生れ付に依て傅に付る者のかたきは差別有べきなり、其外付置士ともゝ此心得有べし、扨又かの傅にする者をば主人ねんごろにあひしらひ位の付樣にしてよく仕ひ樣輕くして位付ざる時は、其子心安くあひしらひ、侮る心あるによりて後には傅をないがしろにして諫言しても聞入ず、行跡不改ものなれば大事の儀なり、凡大名の子は生れ出るより平生安樂に育、難儀を見ざるゆへ下々の辛苦を不知、此故に人の仕樣あらく下の困みを知らずして人を不憐上一人の故に多くの人民をなやます事多し、初め小身にして次第に立身し後に大身に成てさへ無道なれば其時々の勢にまかせて小身なる時の難儀不自由を忘て末のいたみをも忘るもの成に、まして大名の子に生れては其心かしこけれども下々の苦しみ難儀をかつて不知ものなれば、能々此心得なくては諸士又は民百姓に至までつかれ困しみ難儀に及ぶものなり深く思慮すべき事なり、
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史記 伯夷列伝夫れ学ぶ者には載籍(書籍)極めて博きも、猶ほ信を六芸に考ふべし。詩・書は缺くると雖も、然れども虞・夏の文は知る可きなり。尭の将に位を遜らんとするや、虞舜に譲り、舜・禹の間は、岳牧咸な薦めて、乃ち之を位に試み、職を典ること数十年、功用既に興り、然る後に政を授く。天下は重器たる、王者の大統たる、天下を伝ふるの斯くの如く之れ難きを示せるなり。而るに説く者は曰く、尭、天下を許由に譲るも、許由は受けず、之を恥ぢて逃げ隠る。夏の時に及びて、卞随・務光なる者有り。此れ何を以てか称す。太史公曰く、余、箕山に登りしに、其の上に蓋し許由の冢有り、と云ふ。孔子、古の仁聖賢人を序列して、呉の太伯・伯夷の倫の如きは詳らかにす。余以へらく、聞く所の由・光の義は至高なるに、其の文辞の少しくも概見せざるは、何ぞや。
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