武家家訓集 / 黒田如水教諭子の傅をよく撰べ
一子の傅とする士の人物をよく撰ぶべし、其子細は幼少のときより、彼傅日夜付添ひ諸事を育教る故に其子平生の行跡大形傅に似するものなり、外貌のみに非ず、後には心さま迄も傅に似するものなれば大事の儀なり、此故に傅とすべきとおもふ士をば幾重にも吟味してとくと心底を見定、第一思慮有て心正直に僞なく放逸ならずして一筋に忠有ものを付置べし、但其子の生れ付に依て傅に付る者のかたきは差別有べきなり、其外付置士ともゝ此心得有べし、扨又かの傅にする者をば主人ねんごろにあひしらひ位の付樣にしてよく仕ひ樣輕くして位付ざる時は、其子心安くあひしらひ、侮る心あるによりて後には傅をないがしろにして諫言しても聞入ず、行跡不改ものなれば大事の儀なり、凡大名の子は生れ出るより平生安樂に育、難儀を見ざるゆへ下々の辛苦を不知、此故に人の仕樣あらく下の困みを知らずして人を不憐上一人の故に多くの人民をなやます事多し、初め小身にして次第に立身し後に大身に成てさへ無道なれば其時々の勢にまかせて小身なる時の難儀不自由を忘て末のいたみをも忘るもの成に、まして大名の子に生れては其心かしこけれども下々の苦しみ難儀をかつて不知ものなれば、能々此心得なくては諸士又は民百姓に至までつかれ困しみ難儀に及ぶものなり深く思慮すべき事なり、
新字:一子の傅とする士の人物をよく撰ぶべし、其子細は幼少のときより、彼傅日夜付添ひ諸事を育教る故に其子平生の行跡大形傅に似するものなり、外貌のみに非ず、後には心さま迄も傅に似するものなれば大事の儀なり、此故に傅とすべきとおもふ士をば幾重にも吟味してとくと心底を見定、第一思慮有て心正直に偽なく放逸ならずして一筋に忠有ものを付置べし、但其子の生れ付に依て傅に付る者のかたきは差別有べきなり、其外付置士ともゝ此心得有べし、扨又かの傅にする者をば主人ねんごろにあひしらひ位の付様にしてよく仕ひ様軽くして位付ざる時は、其子心安くあひしらひ、侮る心あるによりて後には傅をないがしろにして諫言しても聞入ず、行跡不改ものなれば大事の儀なり、凡大名の子は生れ出るより平生安楽に育、難儀を見ざるゆへ下々の辛苦を不知、此故に人の仕様あらく下の困みを知らずして人を不憐上一人の故に多くの人民をなやます事多し、初め小身にして次第に立身し後に大身に成てさへ無道なれば其時々の勢にまかせて小身なる時の難儀不自由を忘て末のいたみをも忘るもの成に、まして大名の子に生れては其心かしこけれども下々の苦しみ難儀をかつて不知ものなれば、能々此心得なくては諸士又は民百姓に至までつかれ困しみ難儀に及ぶものなり深く思慮すべき事なり、
書き下し
一子の傅とする士の人物をよく撰ぶべし、其子細は幼少のときより、彼傅日夜付添ひ諸事を育教る故に其子平生の行跡大形傅に似するものなり、外貌のみに非ず、後には心さま迄も傅に似するものなれば大事の儀なり、此故に傅とすべきとおもふ士をば幾重にも吟味してとくと心底を見定、第一思慮有て心正直に僞なく放逸ならずして一筋に忠有ものを付置べし、但其子の生れ付に依て傅に付る者のかたきは差別有べきなり、其外付置士ともゝ此心得有べし、扨又かの傅にする者をば主人ねんごろにあひしらひ位の付樣にしてよく仕ひ樣輕くして位付ざる時は、其子心安くあひしらひ、侮る心あるによりて後には傅をないがしろにして諫言しても聞入ず、行跡不改ものなれば大事の儀なり、凡大名の子は生れ出るより平生安樂に育、難儀を見ざるゆへ下々の辛苦を不知、此故に人の仕樣あらく下の困みを知らずして人を不憐上一人の故に多くの人民をなやます事多し、初め小身にして次第に立身し後に大身に成てさへ無道なれば其時々の勢にまかせて小身なる時の難儀不自由を忘て末のいたみをも忘るもの成に、まして大名の子に生れては其心かしこけれども下々の苦しみ難儀をかつて不知ものなれば、能々此心得なくては諸士又は民百姓に至までつかれ困しみ難儀に及ぶものなり深く思慮すべき事なり、
現代語訳
子の傅(守り役)とする士は、人物をよく選ぶべきです。その理由は、幼少のときから傅が日夜付き添って諸事を育て教えるので、その子の日ごろの行いは、おおかた傅に似るものだからです。外見だけでなく、のちには心のありようまで傅に似るので、重大なことです。そのため、傅とすべきと思う士は幾重にも吟味し、その心底をしっかり見定めて、第一に思慮があり、心が正直で偽りがなく、放逸でなく、ひたすら忠義のある者を付けておくべきです。ただし、その子の生まれつきによって、付ける者の堅さ(原文「かたき」)には違いがあってよいでしょう。そのほか付け置く士たちも、この心得を持つべきです。さらに、傅とする者を主人は丁寧に扱い、位の付け方にも気を配ってよく用いるべきで、使い方が軽く位も付いていないと、その子は気安く扱い、侮る心が生じ、のちには傅をないがしろにして、諫言しても聞き入れず、行いも改めないので、重大なことです。およそ大名の子は、生まれたときから安楽に育ち、難儀を見ないので、下々の辛苦を知りません。このため人の使い方が荒く、下の困窮を知らず、人を憐れまないので、上に立つ一人のせいで多くの人民を苦しめることが多くなります。初め小身で次第に出世し、のちに大身になった人でさえ、無道であれば、その時々の勢いにまかせて小身のときの難儀や不自由を忘れ、末の痛みも忘れるものですから、まして大名の子に生まれては、心は賢くても、下々の苦しみや難儀をまったく知らないので、よくよくこの心得がなければ、諸士から百姓に至るまで、疲れ苦しみ、難儀に及びます。深く思慮すべきことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『新書』匈奴此をして其の居処楽虞し、囷京の畜、畜は皆な其の故王に過ぎ、慮るに其の単于に出づる或いは、時時此を賜いて家と為すのみ。匈奴の一国心を傾けて冀い、人人忣忣として其の後れて来至するを惟れ恐る、将に此を以て其の腹を壊らんとす、一餌なり。来降する者に於いては、上必ず時時にして召幸する所有り、拊循して後に官に入るを得。夫れ胡の大人は親しみ難し、若し上、胡の嬰児に於いて貴人の子の好く愛す可き者を召さば、上必ず召幸すること大数十人、此が為に繍衣好閼し、且つ出ずれば則ち従い、居れば則ち更ごも侍す。上即ち胡人を饗する、大觳抵する、胡使を客する、力士、武士固より近く旁に侍し、胡の嬰児は側に近侍するを得、故に貴人更ごも進みて酒を佐くるを前に得、上乃ち幸いに自ら此の薄を御し、酒銭を付せしめ、時の人之に偶す。間を為せば則ち繍衣を出だし、帯服賓餘を具え、時に以て之に賜う。上即ち幸いに胡の嬰児を拊し、擣遒し、之を戯弄し、乃ち炙を授けて幸いに自ら之を啗らい、好衣を出だし、閑にして且つ自ら之を贛う。上起つや、胡の嬰児或いは前し或いは後し、胡の貴人既に酒を奉ずるを得て、出ずれば則ち衣を服し綬を佩び、貴人にして前に立つ、数人をして此を得て居らしむるのみ。
-
史記 伯夷列伝夫れ学ぶ者には載籍(書籍)極めて博きも、猶ほ信を六芸に考ふべし。詩・書は缺くると雖も、然れども虞・夏の文は知る可きなり。尭の将に位を遜らんとするや、虞舜に譲り、舜・禹の間は、岳牧咸な薦めて、乃ち之を位に試み、職を典ること数十年、功用既に興り、然る後に政を授く。天下は重器たる、王者の大統たる、天下を伝ふるの斯くの如く之れ難きを示せるなり。而るに説く者は曰く、尭、天下を許由に譲るも、許由は受けず、之を恥ぢて逃げ隠る。夏の時に及びて、卞随・務光なる者有り。此れ何を以てか称す。太史公曰く、余、箕山に登りしに、其の上に蓋し許由の冢有り、と云ふ。孔子、古の仁聖賢人を序列して、呉の太伯・伯夷の倫の如きは詳らかにす。余以へらく、聞く所の由・光の義は至高なるに、其の文辞の少しくも概見せざるは、何ぞや。
-
『智囊』辯才・觸龍左師曰く、「今より三世以前、趙王の子孫の侯と為る者に至るまで、其の継ぎて在る者有るか」。曰く、「有ること無し」。曰く、「此れ近き者は禍身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子、侯なれば則ち不善ならんや。位尊くして功無く、奉厚くして労無く、而して重器を挟むこと多ければなり。今、媼は長安の位を尊くし、封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を与えて、今功を趙に有らしむるに及ばず。一旦山陵崩ぜば、長安君は何を以て自ら趙に托せんや」。太后曰く、「諾。君の使する所に恣にせよ」。是に於いて長安君の為に車百乗を約し、斉に質たらしむ。斉の師乃ち出で、秦の師退く。
-
『智囊』遠猶・商高宗商の高宗、太子たりし時、其の父小乙、嘗て久しく民間に居らしめ、小民と出入して事を同じくし、以て其の情を知らしむ。〔馮述評〕太祖は太子を教諭するに、必ず命じて備に農家を歴せしめ、その居処・服食・器用を観て、農の労苦を知らしむ。洪武の末、秀才を選び、春坊の官に随いて班を分けて入直し、前に近づきて民間の利害等の事を説かしむ。成祖は北京を巡行するに、二皇長孫をして村落を周行せしめ、農桑の事を歴観せしむ。教諭する者は宜しく以て法と為すべし。
-
『智囊』迎刃・費宏・胡世寧鋳印局には額設の大使・副使が各一員、食糧の儒士が二名。任期が満ちると、補欠の投考を願う者は数千に下らず、請託する者がその半ばを占め、当事者は処置に難渋することが常であった。費宏は吏部尚書となると、食糧二名のほかに、あらかじめ欠を聴く者四人、習字の者四人を取り、次第に補う予定とし、十数年を越えると見積もった。これにより投考および請託の者は皆跡を絶った。土官の世及は、そのたびに転展して結勘し、土官に賂を索めたので、土官はこれを以て怨み叛き、中朝の諸人を軽んじた。胡公世寧は、土官に子が生まれれば、すぐ府に聞かせ、子弟で世及に当たる者が年十歳ばかりとなれば、朔望に事が有って調集するたびに、皆これを携えて太守に見えさせ、太守がその年数と状貌を識して書き付けた。父兄に故が有れば、籍に按じて朝に官を請う。土官は大いに悦服した。〔馮述評〕臨時の結勘の煩わしさを省くのみならず、土官に幼い頃から太守の約束に習わせ、次第にその桀驁の気を消す。まことに良策である。
-
戦国策・趙太后新用事趙の太后新たに用事す、秦急に之を攻む。趙氏斉に救いを求む。斉曰わく、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん。」太后肯んぜず、大臣強いて諫む。太后明らかに左右に謂いて曰わく、「復た長安君を質と為さしめんと言う者有らば、老婦必ず其の面に唾せん。」左師触詟、太后に見えんことを願う。太后気を盛んにして之を揖す。入りて徐(おもむ)ろに趨(はし)り、至りて自ら謝して曰わく、「老臣足を病み、曾て疾く走る能わず、見えざること久し。竊かに自ら恕すも、太后の玉体の郄(げき)有る所を恐る、故に太后を望見せんことを願う。」太后曰わく、「老婦輦を恃みて行く。」曰わく、「日に食飲衰うること無きを得るか。」曰わく、「鬻(かゆ)を恃むのみ。」曰わく、「老臣今者殊に食を欲せず、乃ち自ら強いて歩し、日に三四里、少しく耆食(ししょく)を益し、身に和す。」太后曰わく、「老婦は能わず。」太后の色少しく解く。左師公曰わく、「老臣の賤息舒祺、最も少にして、不肖なり。而して臣衰う、竊かに之を愛憐す。願わくは黒衣の数に補うを得て、以て王宮を衛らしめんことを、死を没して以て聞す。」太后曰わく、「敬んで諾す。年幾何ぞ。」対えて曰わく、「十五歳なり。少しと雖も、未だ溝壑を填(うず)めざるに及びて之を託せんことを願う。」太后曰わく、「丈夫も亦其の少子を愛憐するか。」対えて曰わく、「婦人より甚だし。」太后笑いて曰わく、「婦人は異(こと)に甚だし。」対えて曰わく、「老臣竊かに以為えらく、媼(おう)の燕后を愛するは長安君より賢れりと。」曰わく、「君過てり、長安君の甚だしきに若かず。」左師公曰わく、「父母の子を愛するや、則ち之が為に計ること深遠なり。媼の燕后を送るや、其の踵(かかと)を持して之が為に泣き、其の遠きを念い悲しみ、亦之を哀しめり。已に行きて、思わざるに非ざるも、祭祀には必ず之を祝し、祝いて曰わく、『必ず反らしむること無かれ』と。豈に久長を計り、子孫相継ぎて王為るを有せんと欲するに非ざらんや。」太后曰わく、「然り。」左師公曰わく、「今三世より以前、趙の趙為るに至るまで、趙主の子孫の侯たる者、其の継ぐ者在る有りや。」曰わく、「有る無し。」曰わく、「独り趙のみに非ず、諸侯に在る者有りや。」曰わく、「老婦聞かざるなり。」「此れ其の近き者は禍い身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子孫は則ち必ず不善ならんや。位尊くして功無く、奉厚くして労無くして、重器を挟むこと多ければなり。今媼長安君の位を尊くして、之に封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を予え、今に及びて国に功有らしめず。一旦山陵崩れなば、長安君何を以て自ら趙に託せんや。老臣媼の長安君の為に計るを短しと以為う、故に以為えらく其の愛燕后に若かず、と。」太后曰わく、「諾。君の之を使う所に恣(まか)せん。」是に於いて長安君の為に車百乗を約して斉に質とす、斉の兵乃ち出づ。子義之を聞きて曰わく、「人主の子や、骨肉の親なるすら、猶お功無きの尊、労無きの奉を恃みて、金玉の重きを守る能わず、而るを況んや人臣をや。」
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る