説苑 / 立節
晉獻公之時,有士焉,曰狐突,傅太子申生,公立驪姬為夫人,而國多憂,狐突稱疾不出。六年,獻公以譖誅太子,太子將死,使人謂狐突曰:「吾君老矣,國家多難,傅一出以輔吾君,申生受賜以死不恨。」再拜稽首而死。狐突乃復事獻公,三年,獻公卒,狐突辭於諸大夫曰:「突受太子之詔,今事終矣,與其久生亂世也,不若死而報太子。」乃歸自殺。
新字:晋献公之時,有士焉,曰狐突,傅太子申生,公立驪姫為夫人,而国多憂,狐突称疾不出。六年,献公以譖誅太子,太子将死,使人謂狐突曰:「吾君老矣,国家多難,傅一出以輔吾君,申生受賜以死不恨。」再拝稽首而死。狐突乃復事献公,三年,献公卒,狐突辞於諸大夫曰:「突受太子之詔,今事終矣,与其久生乱世也,不若死而報太子。」乃帰自殺。
書き下し
晋の献公の時、士有り、狐突と曰う。太子申生に傅たり。公驪姫を立てて夫人と為し、国憂い多し。狐突疾と称して出でず。六年、献公譖を以て太子を誅す。太子将に死せんとし、人をして狐突に謂わしめて曰わく、「吾が君老いたり、国家難多し。傅一たび出でて以て吾が君を輔けよ。申生賜を受けて以て死すとも恨みず」と。再拝稽首して死す。狐突乃ち復た献公に事う。三年、献公卒す。狐突諸大夫に辞して曰わく、「突太子の詔を受く。今事終われり。其の久しく乱世に生くるよりは、死して太子に報ゆるに若かず」と。乃ち帰りて自殺す。
現代語訳
晋の献公の時代に、狐突という士がいた。太子申生の傅役であった。献公が驪姫を夫人に立ててから、国には憂いが多くなった。狐突は病と称して仕事に出なくなった。六年後、献公は讒言によって太子申生を誅殺した。太子は死に臨んで人を遣わし、狐突に「わが君はもう老いておられ、国家には困難が多い。傅役よ、一度出仕してわが君を輔けてほしい。申生はこの願いが聞き届けられるなら、死んでも恨みはない」と伝えさせた。狐突は再拝稽首して(その使者に対し敬意を表して)申生の死を見送った。狐突はそこで再び献公に仕えた。三年後、献公が亡くなった。狐突は大夫たちに別れを告げて「私は太子の詔を受けてお仕えしてきた。今その務めは終わった。この乱世に長く生き続けるよりは、死をもって太子に報いる方がよい」と言った。そして家に帰り自殺した。
解説

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