名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 敵方が認めた若武者
○大內義隆の臣、相良遠江守武任、義隆を諫めて曰く、今屬匪の諸將を見るに、毛利元就に過ぎたる良將なし、彼味方に在る程は、尼子如何に矢猛に思ふとも、備藝兩國に於ては、馬に秣をも飼候はじ、萬一元就當家へ對し、怨を含みて、尼子に一味せば、由々敷御大事にて候べし、如何にもして、元就と御合體の事、永々違變なからん樣にし給ふべし。又元春當年十九歳、風骨人に越え、勇烈智謀、元就にも劣る間敷良將なりと、世擧て稱讚する所にて候、元春と陶隆房と、兄弟の契約を成さしめ給はど、當家永久の遠謀にて候べし、隆房勇一途は西匪にあるべきとも存じ候はず、元春、隆房志を一致して、先陣に進まるゝ時は、西國一圓に、當家の有と成るべしと。其人に倚伏せらるゝこと、斯の如し。
新字:○大内義隆の臣、相良遠江守武任、義隆を諫めて曰く、今属匪の諸将を見るに、毛利元就に過ぎたる良将なし、彼味方に在る程は、尼子如何に矢猛に思ふとも、備芸両国に於ては、馬に秣をも飼候はじ、万一元就当家へ対し、怨を含みて、尼子に一味せば、由々敷御大事にて候べし、如何にもして、元就と御合体の事、永々違変なからん様にし給ふべし。又元春当年十九歳、風骨人に越え、勇烈智謀、元就にも劣る間敷良将なりと、世挙て称讃する所にて候、元春と陶隆房と、兄弟の契約を成さしめ給はど、当家永久の遠謀にて候べし、隆房勇一途は西匪にあるべきとも存じ候はず、元春、隆房志を一致して、先陣に進まるゝ時は、西国一円に、当家の有と成るべしと。其人に倚伏せらるゝこと、斯の如し。
書き下し
○大內義隆の臣、相良遠江守武任、義隆を諫めて曰く、今屬匪の諸將を見るに、毛利元就に過ぎたる良將なし、彼味方に在る程は、尼子如何に矢猛に思ふとも、備藝兩國に於ては、馬に秣をも飼候はじ、萬一元就當家へ對し、怨を含みて、尼子に一味せば、由々敷御大事にて候べし、如何にもして、元就と御合體の事、永々違變なからん樣にし給ふべし。又元春當年十九歳、風骨人に越え、勇烈智謀、元就にも劣る間敷良將なりと、世擧て稱讚する所にて候、元春と陶隆房と、兄弟の契約を成さしめ給はど、當家永久の遠謀にて候べし、隆房勇一途は西匪にあるべきとも存じ候はず、元春、隆房志を一致して、先陣に進まるゝ時は、西國一圓に、當家の有と成るべしと。其人に倚伏せらるゝこと、斯の如し。
現代語訳
○大内義隆の臣、相良遠江守武任が義隆を諫めて言いました。いま屬匪の諸将を見るに、毛利元就に過ぎた良将はいません。彼が味方にいる間は、尼子がいかに勇み猛っても、備後・安芸の両国では、馬に秣をも飼えないでしょう。万一、元就が当家に対して怨みを含んで尼子に味方すれば、重大な事態となります。何としても、元就との結びつきが長く変わらないようにしてください。また元春は今年十九歳で、風骨が人に優れ、勇烈と智謀は元就にも劣らない良将と、世こぞって称賛しております。元春と陶隆房とが兄弟の契りを結ぶようにされれば、当家永久の遠謀となりましょう。隆房の勇は一途で、西方の敵にあるはずもないと存じます。元春と隆房が志を一つにして先陣に進まれる時には、西国一円が当家のものになるでしょうと。その人に倚り伏せられること、このようでした。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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史記 張釈之馮唐列伝拝して中大夫と為す。頃之、中郎将に至る。従ひて行きて霸陵に至り、北に居りて廁(かたはら)に臨む。是の時慎夫人従ふ。上、慎夫人に新豊の道を指し示して曰く、「此れ邯鄲に走る道なり」と。慎夫人をして瑟を鼓せしめ、上自ら瑟に倚りて歌ふ。意惨悽として悲懐し、顧みて群臣に謂ひて曰く、「嗟乎、北山の石を以て槨と為し、紵絮を用ひて斮(き)りて陳ね、其の間に蕠漆せば、豈に動かすべけんや」と。左右皆曰く、「善し」と。釈之前み進みて曰く、「其の中をして欲すべき者有らしめば、南山を錮すと雖も猶ほ郄(すき)有り。其の中をして欲すべき者無からしめば、石槨無しと雖も、又何ぞ戚(うれ)へんや」と。文帝善しと称す。其の後釈之を拝して廷尉と為す。頃之、釈之廷尉と為る。
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『韓非子』十過第十國小にして禮無く、諫臣を用いざるは、則ち世を絶つの勢いなり。
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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。