名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 十二歳の初陣願い
毛利元就の二子。吉川氏を冒し、從四位上に叙し、駿河守に任ず。弟小早川隆景と心を戮はせ、元就の草業を佐く。人呼て兩川と曰ふ。天正十四年十一月十五日卒、年五十。 ○天文九年、尼子晴久、元就を吉田に圍み攻む。大內義隆、陶晴賢等をして之を援はしむ。明年正月、元就三千餘騎を引具し、寄手を追拂はんとて、軍を出せし時、元春未だ少輔次郎とて、僅に十二歳なりしが、元就に向ひ、此程も每々合戰のありし時、馳向ひ候はんと申つれども、御免しなければ、空く止まり候ひぬ。今度は是非に御供申さんと請ふ。元就免さず。重ねての戰に相具すべしと言ふ。元春弓箭執る身の幼年なればとて、敵に向はざる事の候べきや、是非御供申さんと馳出ければ、元就、井上河内守をして、元春を具して歸れと言ふ。元春大に腹立し、哀れ長者にも劣る間敷ものを、御情なき仰哉と涙をはら〱と流しければ、井上大に感じ、撫めて城內へ歸らんとしける所に、元春汝は我を遣る間敷かとて、刀を拔て斬んとす。斯りしかば、是より後は止む者なし。元春卽ち士卒を引具し、元就に追付き、此度は是非に御免を蒙り、御供致すべしと申ければ、元就見て、汝未だ稚き身の大不敵者と言ながら、莞爾として是まで來りしことなれば、相具すべしとて、具せられけり。
新字:毛利元就の二子。吉川氏を冒し、従四位上に叙し、駿河守に任ず。弟小早川隆景と心を戮はせ、元就の草業を佐く。人呼て両川と曰ふ。天正十四年十一月十五日卒、年五十。 ○天文九年、尼子晴久、元就を吉田に囲み攻む。大内義隆、陶晴賢等をして之を援はしむ。明年正月、元就三千余騎を引具し、寄手を追払はんとて、軍を出せし時、元春未だ少輔次郎とて、僅に十二歳なりしが、元就に向ひ、此程も毎々合戦のありし時、馳向ひ候はんと申つれども、御免しなければ、空く止まり候ひぬ。今度は是非に御供申さんと請ふ。元就免さず。重ねての戦に相具すべしと言ふ。元春弓箭執る身の幼年なればとて、敵に向はざる事の候べきや、是非御供申さんと馳出ければ、元就、井上河内守をして、元春を具して帰れと言ふ。元春大に腹立し、哀れ長者にも劣る間敷ものを、御情なき仰哉と涙をはら〱と流しければ、井上大に感じ、撫めて城内へ帰らんとしける所に、元春汝は我を遣る間敷かとて、刀を抜て斬んとす。斯りしかば、是より後は止む者なし。元春即ち士卒を引具し、元就に追付き、此度は是非に御免を蒙り、御供致すべしと申ければ、元就見て、汝未だ稚き身の大不敵者と言ながら、莞爾として是まで来りしことなれば、相具すべしとて、具せられけり。
書き下し
毛利元就の二子。吉川氏を冒し、從四位上に叙し、駿河守に任ず。弟小早川隆景と心を戮はせ、元就の草業を佐く。人呼て兩川と曰ふ。天正十四年十一月十五日卒、年五十。 ○天文九年、尼子晴久、元就を吉田に圍み攻む。大內義隆、陶晴賢等をして之を援はしむ。明年正月、元就三千餘騎を引具し、寄手を追拂はんとて、軍を出せし時、元春未だ少輔次郎とて、僅に十二歳なりしが、元就に向ひ、此程も每々合戰のありし時、馳向ひ候はんと申つれども、御免しなければ、空く止まり候ひぬ。今度は是非に御供申さんと請ふ。元就免さず。重ねての戰に相具すべしと言ふ。元春弓箭執る身の幼年なればとて、敵に向はざる事の候べきや、是非御供申さんと馳出ければ、元就、井上河内守をして、元春を具して歸れと言ふ。元春大に腹立し、哀れ長者にも劣る間敷ものを、御情なき仰哉と涙をはら〱と流しければ、井上大に感じ、撫めて城內へ歸らんとしける所に、元春汝は我を遣る間敷かとて、刀を拔て斬んとす。斯りしかば、是より後は止む者なし。元春卽ち士卒を引具し、元就に追付き、此度は是非に御免を蒙り、御供致すべしと申ければ、元就見て、汝未だ稚き身の大不敵者と言ながら、莞爾として是まで來りしことなれば、相具すべしとて、具せられけり。
現代語訳
毛利元就の二男です。吉川氏を名乗り、従四位上に叙せられ、駿河守に任ぜられました。弟の小早川隆景と心を合わせ、元就の草創の業を助けました。人は呼んで両川といいます。天正十四年十一月十五日に亡くなり、年は五十でした。 ○天文九年、尼子晴久が元就を吉田に囲んで攻めました。大内義隆は陶晴賢らにこれを援けさせました。翌年正月、元就が三千余騎を引き連れ、攻め手を追い払おうとして軍を出したとき、元春はまだ少輔次郎といい、わずか十二歳でしたが、元就に向かい、このごろもたびたび合戦のあったとき、馳せ向かいましょうと申しましたが、お許しがなく、空しく止まりました。今度はぜひお供いたしますと願いました。元就は許しません。重ねての戦に連れて行くと言います。元春は、弓矢を執る身が幼年だからといって、敵に向かわないということがありましょうか、ぜひお供いたしますと馳せ出したので、元就は井上河内守に、元春を連れて帰れと言いました。元春は大いに腹を立て、ああ長者にも劣るまいものを、情けないお言葉だと涙をはらはらと流したので、井上は大いに感じ、なだめて城内へ帰ろうとしたところ、元春は、お前は私を行かせまいとするのかと言って、刀を抜いて斬ろうとしました。こうなって以後は止める者はいません。元春はすぐに士卒を引き連れ、元就に追いつき、今度はぜひお許しをこうむり、お供いたしますと申すと、元就は見て、お前はまだ幼い身で大不敵な者だと言いながら、にっこり笑って、ここまで来たことだから連れて行くと言い、連れて行きました。
解説

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