名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 評・遅い出発と完璧な言動
たゞ何と云つても、スタートが遲い。嚴島の戰前は、やつと十萬石位の大名である。嚴島の役で大勝したときが、五十二歳である。これでは日暮れて道遠しである。尼子を片づけると同時に、死んだのである。せめて、嚴島の時が、四十位であつたならば、先づ上洛したのは、信長でなくして元就であつたかも知れない。明人の人相見が、漢高祖、唐の太宗の相を兼ねてゐると云つてゐるが、必ずしもヨクではない。武將として政治家としても、殆んど缺點を見出し得ないほどの大人物である。たゞ吉川興經の所へ息子の元春を養子にやり、その後で興經を殺したりするところは、少しいやだが、降將尼子義久の晩年を安らかに送らせたりしたことは、感じがよい。 儒臣法橋惠瓊をやつつけるところなど、こんな逞しく物の判る大將は、外にないと云つてよいだらう。 長藩が、維新の時に活躍した原動力の一部は、元就に依つて養はれたと云つてよい位である。 家來の膿を吸つてやることも、なか〱出來ないことだらうが、家來がそれに感動して、死して恩に報ぜんとする色が見えると、(汝わが擧動に感じ、厚き恩信とは思ば、大勇の士に非ず)と云ふに至つては、その言動完璧である。 人物としては、戰國時代第一等であると思ふ所以である。
新字:たゞ何と云つても、スタートが遅い。厳島の戦前は、やつと十万石位の大名である。厳島の役で大勝したときが、五十二歳である。これでは日暮れて道遠しである。尼子を片づけると同時に、死んだのである。せめて、厳島の時が、四十位であつたならば、先づ上洛したのは、信長でなくして元就であつたかも知れない。明人の人相見が、漢高祖、唐の太宗の相を兼ねてゐると云つてゐるが、必ずしもヨクではない。武将として政治家としても、殆んど欠点を見出し得ないほどの大人物である。たゞ吉川興経の所へ息子の元春を養子にやり、その後で興経を殺したりするところは、少しいやだが、降将尼子義久の晩年を安らかに送らせたりしたことは、感じがよい。 儒臣法橋恵瓊をやつつけるところなど、こんな逞しく物の判る大将は、外にないと云つてよいだらう。 長藩が、維新の時に活躍した原動力の一部は、元就に依つて養はれたと云つてよい位である。 家来の膿を吸つてやることも、なか〱出来ないことだらうが、家来がそれに感動して、死して恩に報ぜんとする色が見えると、(汝わが挙動に感じ、厚き恩信とは思ば、大勇の士に非ず)と云ふに至つては、その言動完璧である。 人物としては、戦国時代第一等であると思ふ所以である。
書き下し
たゞ何と云つても、スタートが遲い。嚴島の戰前は、やつと十萬石位の大名である。嚴島の役で大勝したときが、五十二歳である。これでは日暮れて道遠しである。尼子を片づけると同時に、死んだのである。せめて、嚴島の時が、四十位であつたならば、先づ上洛したのは、信長でなくして元就であつたかも知れない。明人の人相見が、漢高祖、唐の太宗の相を兼ねてゐると云つてゐるが、必ずしもヨクではない。武將として政治家としても、殆んど缺點を見出し得ないほどの大人物である。たゞ吉川興經の所へ息子の元春を養子にやり、その後で興經を殺したりするところは、少しいやだが、降將尼子義久の晩年を安らかに送らせたりしたことは、感じがよい。 儒臣法橋惠瓊をやつつけるところなど、こんな逞しく物の判る大將は、外にないと云つてよいだらう。 長藩が、維新の時に活躍した原動力の一部は、元就に依つて養はれたと云つてよい位である。 家來の膿を吸つてやることも、なか〱出來ないことだらうが、家來がそれに感動して、死して恩に報ぜんとする色が見えると、(汝わが擧動に感じ、厚き恩信とは思ば、大勇の士に非ず)と云ふに至つては、その言動完璧である。 人物としては、戰國時代第一等であると思ふ所以である。
現代語訳
ただ何といっても、スタートが遅いのです。厳島の戦前は、やっと十万石くらいの大名です。厳島の役で大勝したときが、五十二歳です。これでは日暮れて道遠しです。尼子を片づけると同時に、死んだのです。せめて厳島のときが四十くらいであったならば、まず上洛したのは、信長ではなくて元就であったかもしれません。明人の人相見が、漢の高祖、唐の太宗の相を兼ねていると言っているそうですが、必ずしもよくはありません。武将としても政治家としても、ほとんど欠点を見出せないほどの大人物です。ただ吉川興経のところへ息子の元春を養子にやり、その後で興経を殺したりするところは、少しいやですが、降将尼子義久の晩年を安らかに送らせたりしたことは、感じがよいです。 儒臣法橋恵瓊をやっつけるところなど、こんな逞しく物の判る大将は、外にないと言ってよいでしょう。 長州藩が、維新のときに活躍した原動力の一部は、元就によって養われたと言ってよいくらいです。 家来の膿を吸ってやることも、なかなかできないことでしょうが、家来がそれに感動して、死んで恩に報いようとする色が見えると、お前が私の行いに感じて、厚き恩信とは思えば、大勇の士ではない、と言うに至っては、その言動は完璧です。 人物としては、戦国時代第一等であると思う所以です。
解説

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