名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 高札の緩急と膿を吸う
○元就の、尼子を攻るや、城を洗合山に築く、富田を去ること七里、建て本營と爲し、連珠砦を築き、漸を以て富田に逼る。陣中書を講じ詩歌、蹴鞠の會を催し、攻戰を休め持久を示し、多く反間を縱ち、其君臣をして相疑はしめ、其妻孥を索て之を招降し、又所在、關を置き戍を設け、城中逃るゝ者を執へて之を斬る。依て城下に高札を立て曰く、亡る者降る者、男女少長となく必ず死すと、城中恐怖して一人の出る者なし。是は速に其糧を盡さんと欲すればなり。旣にして城中餒るを料り、卽ち悉く關戍を撤し、高札を更めて曰く、亡る者は追はず、降る者は拒まず、皆寛典に從ふべしと。爰に於て城兵爭ひ潰ゆ。舊家宿將以下降る者相踵ぎ、城中數百人に過ぎず。會々元就病に嬰り月餘癒えず、兩川元就が年高きを以て變あらんことを恐れて、卽ち降を勸む。義久出で降り、遂に尼子氏亡ぶ。 ○元龜元年、出雲島根の陣にて、元就の臣岩木源六郎道忠、左の膝口を射られ、鏃骨體に殘りて癒えず。元就醫をして見せしむるに切らずんば癒えずと言ふ。元就叱て之を退け、自ら口を以て膿を吸ひければ遺鏃口中に入る。之に依て平癒することを得たり。道忠感激し、死して恩に報ぜんとする志、顏色に顯はれたり。元就之を見て汝我擧動に感じ、厚き恩信と思はゞ大勇の者にあらずと深く誡めけり。
新字:○元就の、尼子を攻るや、城を洗合山に築く、富田を去ること七里、建て本営と為し、連珠砦を築き、漸を以て富田に逼る。陣中書を講じ詩歌、蹴鞠の会を催し、攻戦を休め持久を示し、多く反間を縦ち、其君臣をして相疑はしめ、其妻孥を索て之を招降し、又所在、関を置き戍を設け、城中逃るゝ者を執へて之を斬る。依て城下に高札を立て曰く、亡る者降る者、男女少長となく必ず死すと、城中恐怖して一人の出る者なし。是は速に其糧を尽さんと欲すればなり。既にして城中餒るを料り、即ち悉く関戍を撤し、高札を更めて曰く、亡る者は追はず、降る者は拒まず、皆寛典に従ふべしと。爰に於て城兵争ひ潰ゆ。旧家宿将以下降る者相踵ぎ、城中数百人に過ぎず。会々元就病に嬰り月余癒えず、両川元就が年高きを以て変あらんことを恐れて、即ち降を勧む。義久出で降り、遂に尼子氏亡ぶ。 ○元亀元年、出雲島根の陣にて、元就の臣岩木源六郎道忠、左の膝口を射られ、鏃骨体に残りて癒えず。元就医をして見せしむるに切らずんば癒えずと言ふ。元就叱て之を退け、自ら口を以て膿を吸ひければ遺鏃口中に入る。之に依て平癒することを得たり。道忠感激し、死して恩に報ぜんとする志、顔色に顕はれたり。元就之を見て汝我挙動に感じ、厚き恩信と思はゞ大勇の者にあらずと深く誡めけり。
書き下し
○元就の、尼子を攻るや、城を洗合山に築く、富田を去ること七里、建て本營と爲し、連珠砦を築き、漸を以て富田に逼る。陣中書を講じ詩歌、蹴鞠の會を催し、攻戰を休め持久を示し、多く反間を縱ち、其君臣をして相疑はしめ、其妻孥を索て之を招降し、又所在、關を置き戍を設け、城中逃るゝ者を執へて之を斬る。依て城下に高札を立て曰く、亡る者降る者、男女少長となく必ず死すと、城中恐怖して一人の出る者なし。是は速に其糧を盡さんと欲すればなり。旣にして城中餒るを料り、卽ち悉く關戍を撤し、高札を更めて曰く、亡る者は追はず、降る者は拒まず、皆寛典に從ふべしと。爰に於て城兵爭ひ潰ゆ。舊家宿將以下降る者相踵ぎ、城中數百人に過ぎず。會々元就病に嬰り月餘癒えず、兩川元就が年高きを以て變あらんことを恐れて、卽ち降を勸む。義久出で降り、遂に尼子氏亡ぶ。 ○元龜元年、出雲島根の陣にて、元就の臣岩木源六郎道忠、左の膝口を射られ、鏃骨體に殘りて癒えず。元就醫をして見せしむるに切らずんば癒えずと言ふ。元就叱て之を退け、自ら口を以て膿を吸ひければ遺鏃口中に入る。之に依て平癒することを得たり。道忠感激し、死して恩に報ぜんとする志、顏色に顯はれたり。元就之を見て汝我擧動に感じ、厚き恩信と思はゞ大勇の者にあらずと深く誡めけり。
現代語訳
○元就が尼子を攻めるとき、洗合山に城を築きました。富田を去ること七里、これを本営とし、連珠砦を築き、少しずつ富田に迫りました。陣中では書を講じ、詩歌や蹴鞠の会を催し、攻戦を休めて持久の構えを示し、多くの反間を放ってその君臣に疑いを起こさせ、その妻子を探し出して招き降し、また所々に関を置き守りを設けて、城中から逃げる者を捕らえて斬りました。そこで城下に高札を立てて言いました。逃げる者も降る者も、男女老若を問わず必ず死ぬ、と。城中は恐れて一人も出る者がありませんでした。これは、はやく糧を尽きさせようとしたからです。やがて城中が飢えていると見るや、すべての関と守りを撤し、高札を改めて言いました。逃げる者は追わない、降る者は拒まない、みな寛大な処置に従え、と。ここで城兵は争って崩れました。旧家の宿将以下降る者が相次ぎ、城中は数百人に過ぎなくなりました。ちょうど元就は病にかかって一月余り癒えず、両川は元就が年高いので変事が起こることを恐れ、すぐに降伏を勧めました。義久は出て降り、ついに尼子氏は滅びました。 ○元亀元年、出雲島根の陣で、元就の臣、岩木源六郎道忠が左の膝の口を射られ、鏃が骨や体に残って癒えませんでした。元就が医者に見せると、切らなければ癒えないと言います。元就は叱ってこれを退け、自ら口で膿を吸ったところ、残っていた鏃が口の中に入りました。これによって平癒することができました。道忠は感激し、死んで恩に報いようとする志が顔色に表れました。元就はこれを見て、お前が私のこの行いに感じて、厚い恩信と思うようでは、大勇の者ではないと深く戒めました。
解説

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