名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 落とし文で疑いを煽る
○元就、尼子を亡さんと、日夜心を勞し、尼子紀伊守國久が强悍なるを患ひ、之を除んことを謀る。尼子經久は吉川駿河守經基の甥なり。元就は又經基の子伊豆守國經の甥にて、國久とは遠からざる中なれば、姻戚に託し、數々消息をぞ通じける。尼子下野守義勝の卒するや、其子孫四郎經貞猶幼なり。國久出邑を預り得たりしが、長ずるに及びても返さず、經貞世に口惜く思ひ、國久を斃し何つしか取返さばやと思ひ、元就と合體して隱謀を企る由、洩れ聞ゆる樣に謀を運らしければ、晴久頗る之を疑ふ。元就之を聞き、善き圖に至れりと思ひ、罪人を順禮の體に出で立せ、膚に書一通を袋に入れ、深く隱くして持たせ、富田近邊山狹と曰ふ所に、飛脚の山賊の爲めに切り殺して捨置きぬ。行人聚まり見けるが、頃て膚に付たる文袋を見付け、之を開き見れば、元就、國久と內應を約するの文なり。晴久書を得て大に驚き、其後經貞を召し、新宮黨安藝に通ずと聞けり誠にやと問へば、さん候、常に消息絶えず、殊に頃日は元就の飛脚の者とて、度々往還仕ると、羽毛を付て申ければ、晴久實に誠と思ひ、手後れなば臍を噬むとも及ぶべからずと言て、甲を伏せ、國久父子を要殺し、其黨を殲す。北兵是より衰弱せり。
新字:○元就、尼子を亡さんと、日夜心を労し、尼子紀伊守国久が強悍なるを患ひ、之を除んことを謀る。尼子経久は吉川駿河守経基の甥なり。元就は又経基の子伊豆守国経の甥にて、国久とは遠からざる中なれば、姻戚に託し、数々消息をぞ通じける。尼子下野守義勝の卒するや、其子孫四郎経貞猶幼なり。国久出邑を預り得たりしが、長ずるに及びても返さず、経貞世に口惜く思ひ、国久を斃し何つしか取返さばやと思ひ、元就と合体して隠謀を企る由、洩れ聞ゆる様に謀を運らしければ、晴久頗る之を疑ふ。元就之を聞き、善き図に至れりと思ひ、罪人を順礼の体に出で立せ、膚に書一通を袋に入れ、深く隠くして持たせ、富田近辺山狭と曰ふ所に、飛脚の山賊の為めに切り殺して捨置きぬ。行人聚まり見けるが、頃て膚に付たる文袋を見付け、之を開き見れば、元就、国久と内応を約するの文なり。晴久書を得て大に驚き、其後経貞を召し、新宮党安芸に通ずと聞けり誠にやと問へば、さん候、常に消息絶えず、殊に頃日は元就の飛脚の者とて、度々往還仕ると、羽毛を付て申ければ、晴久実に誠と思ひ、手後れなば臍を噬むとも及ぶべからずと言て、甲を伏せ、国久父子を要殺し、其党を殲す。北兵是より衰弱せり。
書き下し
○元就、尼子を亡さんと、日夜心を勞し、尼子紀伊守國久が强悍なるを患ひ、之を除んことを謀る。尼子經久は吉川駿河守經基の甥なり。元就は又經基の子伊豆守國經の甥にて、國久とは遠からざる中なれば、姻戚に託し、數々消息をぞ通じける。尼子下野守義勝の卒するや、其子孫四郎經貞猶幼なり。國久出邑を預り得たりしが、長ずるに及びても返さず、經貞世に口惜く思ひ、國久を斃し何つしか取返さばやと思ひ、元就と合體して隱謀を企る由、洩れ聞ゆる樣に謀を運らしければ、晴久頗る之を疑ふ。元就之を聞き、善き圖に至れりと思ひ、罪人を順禮の體に出で立せ、膚に書一通を袋に入れ、深く隱くして持たせ、富田近邊山狹と曰ふ所に、飛脚の山賊の爲めに切り殺して捨置きぬ。行人聚まり見けるが、頃て膚に付たる文袋を見付け、之を開き見れば、元就、國久と內應を約するの文なり。晴久書を得て大に驚き、其後經貞を召し、新宮黨安藝に通ずと聞けり誠にやと問へば、さん候、常に消息絶えず、殊に頃日は元就の飛脚の者とて、度々往還仕ると、羽毛を付て申ければ、晴久實に誠と思ひ、手後れなば臍を噬むとも及ぶべからずと言て、甲を伏せ、國久父子を要殺し、其黨を殲す。北兵是より衰弱せり。
現代語訳
○元就は尼子を滅ぼそうと日夜心を労し、尼子紀伊守国久の強悍さを憂い、これを除くことを謀りました。尼子経久は吉川駿河守経基の甥です。元就もまた経基の子伊豆守国経の甥にあたり、国久とは遠い間柄ではなかったので、姻戚にかこつけて、たびたび消息を通じました。尼子下野守義勝が亡くなったとき、その子孫四郎経貞はなお幼く、国久が出邑を預かりましたが、成長してもこれを返さず、経貞は世を口惜しく思い、国久を倒して取り返したいと思い、元就と合体して隠れた謀を企てているという噂が漏れ聞こえるように仕向けたので、晴久はたいそうこれを疑いました。元就はこれを聞き、良い図に至ったと思い、罪人を巡礼の姿にして、懐に書状一通を袋に入れて深く隠して持たせ、富田の近く山狭という所で、飛脚が山賊に斬り殺されたように見せて捨て置きました。通行人が集まり見るうちに、やがて懐にある文袋を見つけ、これを開いて見ると、元就と国久が内応を約する文でした。晴久は書を得て大いに驚き、のちに経貞を召して、新宮党が安芸と通じていると聞くがまことか、と問うと、さようです、常に消息が絶えず、とくにこのごろは元就の飛脚の者として、たびたび往来しています、と尾ひれをつけて申したので、晴久はまことと思い、手遅れになれば臍をかんでも及ばないと言って、鎧をつけ、国久父子を謀殺し、その一党を滅ぼしました。尼子の兵はこれより衰えました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 偽の内通と敵の動かし方○此役や、元就是より前、家臣の次三男を尼子家に奉公させ、常に內通さす。尼子も、又二三年以前より內別作助四郎と云ふ近臣を陽はり怒て暇を出し、毛利家に入れ置きたり。元就之を知り、親く召使置きしが、晴久、吉田へ出陣の沙汰ありし時、元就家の子共に、晴久胄山に陣を取れよかし、若し三猪口に陣し、周防の通路を斷れんには味方如何ともすべからず、一と先山口に落ち、大內を賴み防戰するより外は有間敷とて、陰に悔し振りを內別作、略聞く樣に言ければ、案の如く內別作出奔す。元就大に喜びて、偖こそ軍は既に勝たり、胄山より眼の下に城を覩下されなば、如何ともすべからず、三猪口は平場なれば、働如何にも容易なりと言はれたり。晴久果して、此年九月三猪口に出陣せしが、遂に打負て引返せり。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 高札の緩急と膿を吸う○元就の、尼子を攻るや、城を洗合山に築く、富田を去ること七里、建て本營と爲し、連珠砦を築き、漸を以て富田に逼る。陣中書を講じ詩歌、蹴鞠の會を催し、攻戰を休め持久を示し、多く反間を縱ち、其君臣をして相疑はしめ、其妻孥を索て之を招降し、又所在、關を置き戍を設け、城中逃るゝ者を執へて之を斬る。依て城下に高札を立て曰く、亡る者降る者、男女少長となく必ず死すと、城中恐怖して一人の出る者なし。是は速に其糧を盡さんと欲すればなり。旣にして城中餒るを料り、卽ち悉く關戍を撤し、高札を更めて曰く、亡る者は追はず、降る者は拒まず、皆寛典に從ふべしと。爰に於て城兵爭ひ潰ゆ。舊家宿將以下降る者相踵ぎ、城中數百人に過ぎず。會々元就病に嬰り月餘癒えず、兩川元就が年高きを以て變あらんことを恐れて、卽ち降を勸む。義久出で降り、遂に尼子氏亡ぶ。 ○元龜元年、出雲島根の陣にて、元就の臣岩木源六郎道忠、左の膝口を射られ、鏃骨體に殘りて癒えず。元就醫をして見せしむるに切らずんば癒えずと言ふ。元就叱て之を退け、自ら口を以て膿を吸ひければ遺鏃口中に入る。之に依て平癒することを得たり。道忠感激し、死して恩に報ぜんとする志、顏色に顯はれたり。元就之を見て汝我擧動に感じ、厚き恩信と思はゞ大勇の者にあらずと深く誡めけり。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 偽の火で敵を惑わす○天文九年九月、尼子民部大輔晴久、元就を吉田に圍み攻むること急なり。元就急を大內介義隆に告ぐ。十二月義隆、陶尾張守晴賢、深野平右衞門尉興房等一萬餘人を差越す。明る十年正月七日、大內勢尼子と戰ひ、兩軍交々綏せり。十一日の夜元就謀を以て安北、高田、賀茂郡所々の高峰に數千の雲火驟しく舉させたり。尼子勢之を見て疑ひを生じ、東に見ゆるは土佐の一條か、伊豫の河野か、安北山のは肥前の龍造寺か、豐後の大友なるべしと、周章騷ぎ夜明て見れば、丹比山に旗閃めき渡てあらぬ物共見えければ、偶人とは知らず、早や此陣引けと言ふ程こそあれ、總軍悉く騷立ければ、晴久も、方便盡きて十二日朝吉田の青光山を引去て、富田を指して敗走せり。
-
名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 尼子再興と智略の書状○十二年四月、毛利元就兩川をして、大友氏の屬將立花親續を立花城に攻めしむ。幸盛之を聞き、能き隙なりと思ひ、立原源太兵衞久綱等と相計り、故尼子式部大輔誠久の子、東福寺に僧と爲り居たるを、索めて主と爲し、尼子勝四郎勝久とぞ名乘らせける。先づ名字の臣六十三人、雜兵合せて二百人を引具し、五月、隱岐の國に押渡る。隱岐守爲清は一族と云ひ、舊好と云ひ一番に馳來り、宮田の城へ招き入れ、資を出して萬事軍裝を調へてけり。六月下旬、勝久出雲へ打て出で、新山の城を始めとして、十餘日の間既に十五城を攻落し、末次を居城とし漸々富田に迫る。出雲よりは三澤左京亮、三刀屋彈正忠、高瀨備前守、米原平内兵衞方へ急ぎ歸陣あれよ、山中鹿之助が狼藉以の外痛みぬる由、妻子等より急を告ること櫛の齒を挽くが如し。元就此事を聞き急ぎ四人の者共出雲へ歸陣し、彼賊徒等悉く討果し候へと使者ありしかば、内内望む所にはあり、いざさらば今夜の出潮に出船し、明日は安藝の地に着岸し、夜を日に繼ぎ急んと、聲々に罵れり。此事早や出雲へ聞えしかば、幸盛方より右四人の人々へ御歸陣の由、目出度こそ候、昔を思し出されば、豐前御在陣の中にも、御腹立なる事のみ候はん、御心中察入候抔取繕ひ、親き書音ありければ、此人々開き見て、偖も心ある哉、文武に達せし鹿之助、今世に稀なる忠臣たるべしと感じ、此狀を披見し、早や尼子へ歸參せばやと思ふ志萌しけり。高瀨、米原は歸城せし夜、勝久へ御歸國目出度存奉る旨、幸盛を頼み進物抔致しければ、殊の外馳走せしめ、返章最委し。此兩人歸服の一禮ありしかば、國中彌〱靜謐に成りぬ。之に依り三刀屋、三澤も歸降せんとぞ申來りたる。幸盛の智略率ね是類なり。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 刺客を阻んだ座の構え○元就洗合に陣し、富田を圍み攻む。尼子の家臣に、熊谷新右衞門、原宗兵衞と曰ふ二人の者あり。二人主君義久の前に出て、洗合へ降人に出なば、元就必ず對面あるべし、其時間隙を覘ひ二人一同に飛掛り刺殺し候はんに、何條事の候べき、左あらんに於ては、兩人が子供に所領賜はれかしと申ければ、義久大に喜び、卽ち二人の子に若干貫づゝの知行を宛行ひける。熊谷、原の兩人如何に猛き元就なりとも、二人左右より捕へなば、遁す間敷ものをと、大言吐て出たりける。旣に洗合に至り降人の由、申入れければ、元就卽ち對面ありたり。其日降人三十餘人ありけるが、熊谷、原其中に混じて出でしが、案に相違して、上の間に元就父子三人着坐し、次に福原、桂、兒玉以下の侍二十餘人並び居たりければ、兩人とも徒らに頓首して退出せり。元就今日の降人五六人目に出でし者疑はしき所あり。嚴しき番人を付置くべしとて、警固の者數人を置たり。二人の者警固の透間を伺ひ、富田へ逃け歸る。義久偖如何にと尋ねければ、兩人の者、さん候、元就は人間にてはよもあらじ、如何にも神佛の化身にてこそ候らはめと、前後のことを語りけるとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』吉川元春 攻戦は元春に任せよ○元就曰く、數萬の衆を卒る、機を兩陣の間に決し、戰へば卽ち勝ち、攻れば則ち取り、威を天下に爭ふことは、吾元春に及ばずとありて、攻戰の術は、元春に任ぜられけり。元就終に臨み、輝元に、遺言して曰く、攻戰の道は、大小となく、悉く元春に任すべく、如何なる敵に逢ふとも、危かるべからず、若し元春の意見を用ひずんば、弓箭後れ武威衰ふべしと。 ○元龜二年、尼子勝久、元就が病を聞き、伯耆に入り諸城を拔く。山中幸盛は、末石に在り、四出鈔略す。元就の死を聞くに及びて、勢頗る張れり。爰に於て、元春哭泣して曰く、敵を盡くして以て先考の靈を慰めん、其功德佛に供し、僧に飯するに愈れりと。則ち兵一萬を卒る、末石を伐んと欲し、先づ大山の僧徒を攻ると聲言し、還り末石を攻む。幸盛計窮り、出て降りしが病と伴はり、遂に圍より逸し、美作に走る。元春則ち新山を攻む。城兵潰え、勝久隱岐に奔り、遂に京師に奔る。其兵或は降り或は遁れ、雲伯悉く平ぐ。元春留て富田を鎭せり。