名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 偽の火で敵を惑わす
○天文九年九月、尼子民部大輔晴久、元就を吉田に圍み攻むること急なり。元就急を大內介義隆に告ぐ。十二月義隆、陶尾張守晴賢、深野平右衞門尉興房等一萬餘人を差越す。明る十年正月七日、大內勢尼子と戰ひ、兩軍交々綏せり。十一日の夜元就謀を以て安北、高田、賀茂郡所々の高峰に數千の雲火驟しく舉させたり。尼子勢之を見て疑ひを生じ、東に見ゆるは土佐の一條か、伊豫の河野か、安北山のは肥前の龍造寺か、豐後の大友なるべしと、周章騷ぎ夜明て見れば、丹比山に旗閃めき渡てあらぬ物共見えければ、偶人とは知らず、早や此陣引けと言ふ程こそあれ、總軍悉く騷立ければ、晴久も、方便盡きて十二日朝吉田の青光山を引去て、富田を指して敗走せり。
新字:○天文九年九月、尼子民部大輔晴久、元就を吉田に囲み攻むること急なり。元就急を大内介義隆に告ぐ。十二月義隆、陶尾張守晴賢、深野平右衛門尉興房等一万余人を差越す。明る十年正月七日、大内勢尼子と戦ひ、両軍交々綏せり。十一日の夜元就謀を以て安北、高田、賀茂郡所々の高峰に数千の雲火驟しく舉させたり。尼子勢之を見て疑ひを生じ、東に見ゆるは土佐の一条か、伊予の河野か、安北山のは肥前の竜造寺か、豊後の大友なるべしと、周章騷ぎ夜明て見れば、丹比山に旗閃めき渡てあらぬ物共見えければ、偶人とは知らず、早や此陣引けと言ふ程こそあれ、総軍悉く騷立ければ、晴久も、方便尽きて十二日朝吉田の青光山を引去て、富田を指して敗走せり。
書き下し
○天文九年九月、尼子民部大輔晴久、元就を吉田に圍み攻むること急なり。元就急を大內介義隆に告ぐ。十二月義隆、陶尾張守晴賢、深野平右衞門尉興房等一萬餘人を差越す。明る十年正月七日、大內勢尼子と戰ひ、兩軍交々綏せり。十一日の夜元就謀を以て安北、高田、賀茂郡所々の高峰に數千の雲火驟しく舉させたり。尼子勢之を見て疑ひを生じ、東に見ゆるは土佐の一條か、伊豫の河野か、安北山のは肥前の龍造寺か、豐後の大友なるべしと、周章騷ぎ夜明て見れば、丹比山に旗閃めき渡てあらぬ物共見えければ、偶人とは知らず、早や此陣引けと言ふ程こそあれ、總軍悉く騷立ければ、晴久も、方便盡きて十二日朝吉田の青光山を引去て、富田を指して敗走せり。
現代語訳
天文九年九月、尼子民部大輔晴久が元就を吉田に囲んで激しく攻めた。元就は急を大内介義隆に告げた。十二月、義隆は陶尾張守晴賢、深野平右衛門尉興房らの一万余人を差し向けた。翌十年正月七日、大内勢は尼子と戦い、両軍は互いに動きを緩めた。十一日の夜、元就は計略をもって、安北、高田、賀茂の郡々の高い峰々に、数千の火をしきりに上げさせた。尼子勢はこれを見て疑いを生じ、「東に見えるのは土佐の一条か、伊予の河野か。安北山のは肥前の龍造寺か、豊後の大友だろう」と慌てふためき、夜が明けて見ると、丹比山に旗がひらめき渡って、思いがけぬものどもが見えたので、それが人形だとは知らず、「早くこの陣を引け」と言うや否や、全軍がことごとく騒ぎ立ち、晴久も手立てが尽きて、十二日の朝、吉田の青光山を引き去り、富田を目指して敗走した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
孫子・九地篇能く士卒の耳目を愚にして、之をして知ること無からしむ。其の事を易え、其の謀を革めて、人をして識ること無からしむ。其の居を易え、其の途を迂にして、人をして慮ることを得ざらしむ。
-
孫子・用間篇故に三軍の事は、間より親きは無く、賞は間より厚きは無く、事は間より密なるは無し。
-
史記 田単列伝唯だ独り莒と即墨とのみ下らず。燕軍、斉王の莒に在るを聞き、兵を并せて之を攻む。淖歯既に湣王を莒に殺し、因りて堅く守り、燕軍を距ぐこと数年、下らず。燕、兵を引きて東して即墨を囲む。即墨の大夫出でて与に戦ひ、敗れて死す。城中相与に田単を推して曰く、「安平の戦に、田単の宗人は鉄籠を以て全きを得たり。兵に習ふ」と。立てて以て将軍と為し、即墨を以て燕を距がしむ。頃之して、燕の昭王卒し、恵王立つ。楽毅と隙有り。田単之を聞き、乃ち反間を燕に縦ちて、宣言して曰く、「斉王已に死し、城の抜けざる者は二つのみ。楽毅は誅を畏れて敢て帰らず、斉を伐つを以て名と為すも、実は兵を連ねて南面して斉に王たらんと欲す。斉人未だ附かず、故に且く即墨を攻むるを緩めて以て其の事を待つ。斉人の懼るる所は、唯だ他将の来たらんことを恐るるのみ。即墨残はれん」と。燕王以て然りと為し、騎劫をして楽毅に代らしむ。楽毅因りて趙に帰し、燕人の士卒忿る。而して田単乃ち城中の人をして食ふに必ず其の先祖を庭に祭らしむ。飛鳥悉く城中に翔舞して下りて食ふ。燕人之を怪しむ。田単因りて宣言して曰く、「神来り下りて我に教ふ」と。乃ち城中の人に令して曰く、「当に神人の我が師と為る有るべし」と。一卒有りて曰く、「臣以て師と為るべきか」と。因りて反り走る。田単乃ち起ち、引きて還し、東嚮して坐せしめ、之に師事す。卒曰く、「臣、君を欺けり。誠に能無きなり」と。田単曰く、「子言ふ勿かれ」と。因りて之を師とす。約束を出だす毎に、必ず神師と称す。乃ち宣言して曰く、「吾は唯だ燕軍の得る所の斉の卒を劓し、之を前行に置きて我と戦はんことを懼る。即墨敗れん」と。燕人之を聞き、其の言の如くす。城中の人、斉の諸の降る者の尽く劓せらるるを見て、皆怒り、堅く守り、唯だ得らるるを恐る。単又反間を縦ちて曰く、「吾は燕人の吾が城外の冢墓を掘り、先人を僇しめんことを懼る。寒心すべし」と。燕軍尽く壟墓を掘り、死人を焼く。即墨の人、城上より望み見て、皆涕泣し、倶に出でて戦はんと欲し、怒り自ら十倍す。
-
孫子・始計篇能くしてこれを不能と示し、用いてこれを不用と示し、近くしてこれを遠しと示し、遠くしてこれを近しと示す。
-
孫子・行軍篇凡そ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴びて陰を賤しみ、生を養いて実に処る。軍に百疾無し、是を必勝と謂う。
-
李衛公問対・卷上孫武の謂う所の『人を形せしめて我は形無し』とは、此れ乃ち奇正の極致なり。